・・・ 灸は部屋の中へ這入ると暫く明けた障子に手をかけて立っていた。女の子は彼の傍へ寄って来て、「アッ、アッ。」といいながら座蒲団を灸の胸へ押しつけた。 灸は座蒲団を受けとると女の子のしていたようにそれを頭へ冠ってみた。「エヘエヘ・・・ 横光利一 「赤い着物」
・・・ 己は戸を開けたが、意外の感に打たれて、閾の上に足を留めた。 ランプの点けてある古卓に、エルリングはいつもの為事衣を着て、凭り掛かっている。ただ前掛だけはしていない。何か書き物をしているのである。書いている紙は大判である。その側には・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
・・・フィンクは肘で扉を押し開けて閾の上に立って待合室の中を見た。明るい所から暗い所に這入ったので、目の慣れるまではなんにも見えなかった。次第に向側にある、停車場の出口の方へ行く扉が見えて来る。それから、背中にでこぼこのある獣のようなものが見えて・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・々長い歎息になって、心に畳まってる思いの数々が胸に波を打たせて、僕をジット抱〆ようとして、モウそれも叶わぬほどに弱ったお手は、ブルブル震えていましたが、やがて少し落着て……、落着てもまだ苦しそうに口を開けて、神に感謝の一言「神よ、オオ神よ、・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そういうところを何十分か漕いで行くうちに、だんだん左右が開けてくる。巨椋池の一端に達したらしいが、まだ暗くて遠くは見晴らせない。そういうふうにしていつとはなしに周囲が池らしくなって来たのである。 舟はもう蓮の花や葉の間を進んでいる。その・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
・・・夜中に開くのもある。明け方に音がするというのは変な話だという。そういわれてみると、蓮の花が日光のささない時刻に、すなわち暗くて人に見えずまた人の見ない時刻に、開くのであるということ、そのために常人の判断に迷うような伝説が生じたのであるという・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫