・・・三十格好と思われる病身そうな青白い顔に、あごひげをまばらにはやしているのが夜目にもわかった。そうしてその熱病患者に特有なような目つきが何かしら押え難い心の興奮を物語っているように見えた。男の背中には五六歳ぐらいの男の子が、さもくたびれ果てた・・・ 寺田寅彦 「蒸発皿」
・・・それは口を大きくあいて舌を上あごにくっつけておいて舌の下面の両側から唾液を小さな二条の噴水のごとく噴出するという芸当であった。口から外へ十センチメートルほどもこの噴水を飛ばせるのはみごとなものであった。一種のグロテスクな獣性を帯びたこの芸当・・・ 寺田寅彦 「相撲」
・・・新橋駅(今の汐留へ迎いに行ったら、汽車からおりた先生がお嬢さんのあごに手をやって仰向かせて、じっと見つめていたが、やがて手をはなして不思議な微笑をされたことを思い出す。 帰朝当座の先生は矢来町の奥さんの実家中根氏邸に仮寓していた。自分の・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・くろい、あごのしゃくれた小さい顔は、あらわに敵意をみせていた。女は一度もふりむかないけれど、うしろを意識している気ぶりは、うしろ姿のどこにもあらわれている。裾をけひらくような特徴のある歩き方、紅と紫のあわせ帯をしているすらッとした腰のへん。・・・ 徳永直 「白い道」
・・・「やまねこ、にゃあご、ごろごろ さとねこ、たっこ、ごろごろ。」「わあ、うまいうまい。わっはは、わっはは。」「第三とうしょう、水銀メタル。おい、みんな、大きいやつも出るんだよ。どうしてそんなにぐずぐずしてるんだ。」画かきが少し・・・ 宮沢賢治 「かしわばやしの夜」
・・・そこに学生たち町の人たちに囲まれて青じろい尖ったあごをしたカムパネルラのお父さんが黒い服を着てまっすぐに立って右手に持った時計をじっと見つめていたのです。 みんなもじっと河を見ていました。誰も一言も物を云う人もありませんでした。ジョバン・・・ 宮沢賢治 「銀河鉄道の夜」
・・・ すると二人は、ぎょっとしたように顔をあげて、あごに手をあててしばらくブドリを見ていましたが、赤ひげがにわかに笑い出しました。「よしよし。お前に馬の指竿とりを頼むからな。すぐおれについて行くんだ。それではまず、のるかそるか、秋まで見・・・ 宮沢賢治 「グスコーブドリの伝記」
・・・じいさんは、ていねいにおじぎをして行き過ぎようとしましたら、さむらいがピタリととまって、ちょっとそらを見上げて、それからあごを引いて、六平を呼び留めました。秋の十五夜でした。「あいや、しばらく待て。そちは何と申す」「へいへい。私は六・・・ 宮沢賢治 「とっこべとら子」
・・・長いあごを両手に載せて睡っている。次はラクシャン第三子やさしい眼をせわしくまたたきいちばん左はラクシャンの第四子、末っ子だ。夢のような黒い瞳をあげてじっと東の高原を見た。楢ノ木大学士がもっとよく四人を見よ・・・ 宮沢賢治 「楢ノ木大学士の野宿」
・・・お医者の悪魔もあごのひげをひねったまましいんとして空をみあげています。雲のみねはだんだん崩れてしずかな金いろにかがやき、そおっと、北の方へ流れ出しました。 ひなげしはやっぱりしいんとしています。お医者もじっとやっぱりおひげをにぎったきり・・・ 宮沢賢治 「ひのきとひなげし」
出典:青空文庫