・・・必ずしも白蓮に観音立ち給い、必ずしも紫陽花に鬼神隠るというではない。我が心の照応する所境によって変幻極りない。僕が御幣を担ぎ、そを信ずるものは実にこの故である。 僕は一方鬼神力に対しては大なる畏れを有っている。けれどもまた一方観音力の絶・・・ 泉鏡花 「おばけずきのいわれ少々と処女作」
・・・そのために東京から故郷に帰る途中だったのでありますが、汚れくさった白絣を一枚きて、頭陀袋のような革鞄一つ掛けたのを、玄関さきで断られる処を、泊めてくれたのも、蛍と紫陽花が見透しの背戸に涼んでいた、そのお米さんの振向いた瞳の情だったのです。・・・ 泉鏡花 「雪霊記事」
・・・ 風の一息死ぬ、真空の一瞬時には、町も、屋根も、軒下の流も、その屋根を圧して果しなく十重二十重に高く聳ち、遥に連る雪の山脈も、旅籠の炬燵も、釜も、釜の下なる火も、果は虎杖の家、お米さんの薄色の袖、紫陽花、紫の花も……お米さんの素足さえ、・・・ 泉鏡花 「雪霊続記」
・・・ その時、提紙入の色が、紫陽花の浅葱淡く、壁の暗さに、黒髪も乱れつつ、産婦の顔の萎れたように見えたのである。 谷間の卵塔に、田沢氏の墓のただ一基苔の払われた、それを思え。「お爺さん、では、あの女の持ものは、お産で死んだ記念の納も・・・ 泉鏡花 「燈明之巻」
・・・――梅雨の頃は、闇黒に月の影がさしたほど、あっちこっちに目に着いた紫陽花も、この二、三年こっちもう少い。――荷車のあとには芽ぐんでも、自動車の轍の下には生えまいから、いまは車前草さえ直ぐには見ようたって間に合わない。 で、何処でも、あの・・・ 泉鏡花 「二、三羽――十二、三羽」
・・・ この世盛りの、思い上れる、美しき女優は、樹の緑蝉の声も滴るがごとき影に、框も自然から浮いて高い処に、色も濡々と水際立つ、紫陽花の花の姿を撓わに置きつつ、翡翠、紅玉、真珠など、指環を三つ四つ嵌めた白い指をツト挙げて、鬢の後毛を掻いたつい・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・裏縁に引いた山清水に……西瓜は驕りだ、和尚さん、小僧には内証らしく冷して置いた、紫陽花の影の映る、青い心太をつるつる突出して、芥子と、お京さん、好なお転婆をいって、山門を入った勢だからね。……その勢だから……向った本堂の横式台、あの高い処に・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・道の向う側の黒い板塀の下に一株の紫陽花が咲いていて、その花がいまでもはっきり頭に残っているところから考えると、或いは僕はそのとき柄にもなく旅愁に似たセンチメンタルな気持でいたのかも知れないね。「兵隊さん、雨に濡れてしまいますよ。」 ・・・ 太宰治 「雀」
・・・対岸には、紫陽花が咲いている。竹藪の中で、赤く咲いているのは夾竹桃らしい。眠くなって来た。「釣れますか?」女の声である。 もの憂げに振り向くと、先刻の令嬢が、白い簡単服を着て立っている。肩には釣竿をかついでいる。「いや、釣れるも・・・ 太宰治 「令嬢アユ」
・・・ * 夕暮よりも薄暗い入梅の午後牛天神の森蔭に紫陽花の咲出る頃、または旅烏の啼き騒ぐ秋の夕方沢蔵稲荷の大榎の止む間もなく落葉する頃、私は散歩の杖を伝通院の門外なる大黒天の階に休めさせる。その度に堂内に安置された・・・ 永井荷風 「伝通院」
出典:青空文庫