一 枇杷の実は熟して百合の花は既に散り、昼も蚊の鳴く植込の蔭には、七度も色を変えるという盛りの長い紫陽花の花さえ早や萎れてしまった。梅雨が過ぎて盆芝居の興行も千秋楽に近づくと誰も彼も避暑に行く。郷里へ帰る。そして炎暑の明い寂寞が・・・ 永井荷風 「夏の町」
・・・東隣で琴と尺八を合せる音が紫陽花の茂みを洩れて手にとるように聞え出す。すかして見ると明け放ちたる座敷の灯さえちらちら見える。「どうかな」と一人が云うと「人並じゃ」と一人が答える。女ばかりは黙っている。「わしのはこうじゃ」と話しがまた元へ・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・との生活は原始ながら自然な条件を多くもっていたために、女は美しい女、醜い女、賢い女、愚かな女というようなおのずからな差別をうけながらも、女らしいという自然性については、何も特別な見かたはされていない。紫陽花が紫陽花らしいことに何の疑いもはさ・・・ 宮本百合子 「新しい船出」
ねばねばした水気の多い風と、横ざまに降る居ぎたない雨がちゃんぽんに、荒れ廻って居る。 はてからはてまで、灰色な雲の閉じた空の下で、散りかかったダリアだの色のさめた紫陽花が、ざわざわ、ざわざわとゆすれて居るのを見て居ると・・・ 宮本百合子 「雨の日」
・・・春先、まだ紫陽花の花が開かず、鮮やかな萌黄の丸い芽生であった頃、青桐も浅い肉桂色のにこげに包まれた幼葉を瑞々しい枝の先から、ちょぽり、ちょぽりと見せていた。 浅春という感じに満ちて庭を彼方此方、歩き廻りながら日を浴び、若芽を眺めるのは、・・・ 宮本百合子 「透き徹る秋」
・・・土庇の深く出た部屋で、その庭には槇と紫陽花と赤い絹糸の総をかけたような芽をふく楓が一株あった。蕗の薹も出た。その小部屋は、親たちのいるところと、夜は真暗な妙にくねった廊下でへだてられていた。父や母は壮年時代の旺盛な生活ぶりで、どちらかという・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・六と云ふさへよければ助六の紅の襦袢はなつかしや 水色の衿かゝりてあれば真夜中の鏡の中に我見れば 暗きかげより呪湧く如呪はれて呪ひて見たき我思ひ 物語りめく折もあるかと紫陽花のあせたる花に歌書きて 送り・・・ 宮本百合子 「短歌習作」
・・・私は目玉をクルクルと三つまわしたばっかりでだまって家ににげ込んだ…… 見たまま空色に 水色にかがやいて居る紫陽花に悪魔の使か黒蝶が謎のとぶよにとんで居る、ヒーラ、ヒーラ、ヒーラわきにく・・・ 宮本百合子 「つぼみ」
・・・いつもより沢山……紅葉、紫陽花、孔雀草、八つ手、それぞれ特有な美くしさと貴さで空と土との間を色どって居る。どんなささやかなもの、そんなまずしげなものにでも朝のかがやきはい(おって居る。「力強い、勇気の有る、若々しい朝は、立派な洗面器・・・ 宮本百合子 「日記」
いつでも黒い被衣を着て切下げて居た祖母と京都に行って居たのは丁度六月末池の水草に白い豆の様な花のポツリポツリと見え始める頃から紫陽花のあせる頃までで私にはかなり長い旅であった。祖母の弟の家にやっかいになって居てすっかり京都・・・ 宮本百合子 「ひな勇はん」
出典:青空文庫