・・・ 若衆は盤台を一枚洗い揚げたところで、ふと小僧を見返って、「三公、お上さんはいつごろ出かけたんだい?」「そうだね、何でも為さんが得意廻りに出るとじきだったよ」「それにしちゃ馬鹿に遅いじゃねいか。何だかこの節お上さんの様子が変だぜ・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・朝、瀬多川で顔を洗い、駅前の飯屋で朝ごはんを食べると、もう十五銭しか残っていなかった。それで煙草とマッチを買い、残った三銭をマッチの箱の中に入れて、おりから瀬多川で行われていたボート競争も見ずに、歩きだした。ところが、煙草がなくなるころには・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・もっとも現在の日本の劇作家の多くは劇団という紋切型にあてはめて書いているのか、神経が荒いのか、書きなぐっているのか、味のある会話は書けない。若い世代でいい科白の書けるのは、最近なくなった森本薫氏ぐらいのもので、菊田一夫氏の書いている科白など・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・そしてある日、遂に地蔵の胸に水を掛け水を掛け、たわしで洗い洗いしている洋装の女を見つけた。ふと顔を見ると、それが「亀さん」だったのである。 父親のこのみで彼女はむかし絶対に洋装をしなかったのであるが、いまは夏であるから彼女も洋装していた・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・親子五人食うや呑まずの苦しい暮しが続いた恵まれぬ将棋指しとしての荒い修業時代、暮しの苦しさにたまりかねた細君が、阿呆のように将棋一筋の道にしがみついて米一合の銭も稼ごうとせぬ亭主の坂田に、愛想をつかし、三人のひもじい子供を連れて家出をし、う・・・ 織田作之助 「勝負師」
・・・汽船との連絡の待合室で顔を洗い、そこの畳を敷いた部屋にはいって朝の弁当をたべた。乗替えの奥羽線の出るのは九時だった。「それではいよいよ第一公式で繰りだしますか?」「まあ袴だけにしておこうよ。あまり改った風なぞして鉄道員に発見されて罰・・・ 葛西善蔵 「父の葬式」
・・・と苦しげな息の下から止ぎれ止ぎれに言って、あとはまた眼を閉じ、ただ荒い息づかいが聞えるばかりでした。どうやらそのまま眠ってゆく様子です。 やれやれ眠って呉れた、と二昼夜眠らなかった私は今夜こそ一寸でも眠らねばならぬと考えて、毛布にくるま・・・ 梶井久 「臨終まで」
・・・それは身体を流れめぐって、病気に汚れた彼の血を、洗い清めてくれるのだ。「俺はだんだん癒ってゆくぞ」 コロコロ、コロコロ、彼の小さな希望は深夜の空気を清らかに顫わせた。 六 窓からの風景はいつの夜も渝らなかった・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・干潮で荒い浪が月光に砕けながらどうどうと打ち寄せていました。私は煙草をつけながら漁船のともに腰を下して海を眺めていました。夜はもうかなり更けていました。 しばらくして私が眼を砂浜の方に転じましたとき、私は砂浜に私以外のもう一人の人を発見・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
・・・男の児が一人いて、なにか荒い遊びをしているらしかった。 勝子が男の児に倒された。起きたところをまた倒された。今度はぎゅうぎゅう押えつけられている。 いったい何をしているのだろう。なんだかひどいことをする。そう思って峻は目をとめた。・・・ 梶井基次郎 「城のある町にて」
出典:青空文庫