・・・ 其人の饑渇は充分に癒さるべければ也とのことである、而して是れ現世に於て在るべきことでない事は明である、義を慕う者は単に自己にのみ之を獲んとするのではない、万人の斉く之に与からんことを欲するのである、義を慕う者は義の国を望むのである、而して・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・ そして、子供らは、毎日、水の面を見上げて、花の散る日をたのしみにして待っていました。ひとり、母親だけは、子供らが自分のいましめをきかないのを心配していました。「どうか、花を私の知らぬまに食べてくれぬといいけれど。」と、独り言をして・・・ 小川未明 「赤い魚と子供」
・・・ けれど、すみれは、ついにその鳥の姿を見ずして、いつしか散る日がきたのであります。そのとき、ちょうどかたわらに生えていた、ぼけの花が咲きかけていました。ぼけの花は、すみれが独り言をしてさびしく散ってゆく、はかない影を見たのであります。・・・ 小川未明 「いろいろな花」
・・・一つは雑誌であると、百貨店へ行ったように他へ気が散るからであります。 しかし、雑誌は、決して、軽んぜらるべきものではない。雑誌の価値は、古くなればなる程出て来るものです。この点に於て、書物と対蹠的の感じがします。 この理由は、個・・・ 小川未明 「書を愛して書を持たず」
・・・そして作家の努力は即ち神経、感情のエキセントリックな者であって嘗て人間の達しなかった眼に見えなかった感情、人の達しない境に入るところに在ると思うのである。 小川未明 「絶望より生ずる文芸」
・・・ しかし、空拳と無芸では更に成すべき術もなく、寒山日暮れてなお遠く、徒らに五里霧中に迷い尽した挙句、実姉が大邱に在るを倖い、これを訪ね身の振り方を相談した途端に、姉の亭主に、三百円の無心をされた。姉夫婦も貧乏のどん底だった。「百円は・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
・・・死骸はわずか一間と隔てぬ所に在るのだけれど、その一間が時に取っては十里よりも……遠いのではないが、難儀だ。けれども、如何仕様も無い、這って行く外はない。咽喉は熱して焦げるよう。寧そ水を飲まぬ方が手短に片付くとは思いながら、それでも若しやに覊・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう。勿論われわれは摺足でもして進むほかはないだろう。しかしそれは苦渋や不安や恐怖の感情で一ぱいになった一歩だ。その一歩を敢然と踏み出すためには、われわれは悪魔を呼ばなければなら・・・ 梶井基次郎 「闇の絵巻」
・・・既に在る事実は其為めに消えません。」「けれども其は止を得ないでしょう。」「だから運命です。離婚した処で生の母が父の仇である事実は消ません。離婚した処で妹を妻として愛する僕の愛は変りません。人の力を以て過去の事実を消すことの出来ない限・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・ 蟹田なる鍛冶の夜業の火花闇に散る前を行過ぎんとして立ちどまり、日暮のころ紀州この前を通らざりしかと問えば、気つかざりしと槌持てる若者の一人答えて訝しげなる顔す。こは夜業を妨げぬと笑面作りつ、また急ぎゆけり。右は畑、左は堤の上を一列に老・・・ 国木田独歩 「源おじ」
出典:青空文庫