・・・智恩院の桜が入相の鐘に散る春の夕べに、これまで類のない、珍しい罪人が高瀬舟に載せられた。 それは名を喜助と言って、三十歳ばかりになる、住所不定の男である。もとより牢屋敷に呼び出されるような親類はないので、舟にもただ一人で乗った。 護・・・ 森鴎外 「高瀬舟」
・・・石田は表側の縁に立って、百日紅の薄黒い花の上で、花火の散るのを見ている。そこへ春が来て、こう云った。「今別当さんが鶏を縛って持って行きよります。雛は置こうかと云いますが、置けと云いまっしょうか。」「雛なんぞはいらんと云え。」 石・・・ 森鴎外 「鶏」
・・・「そうかて谷川って云うのは、あの家一軒ばち有るか。お前とこの株内や。」「だいたいあの家、俺は好かんのや。」「贅沢ぬかしてよ。俺が連れてってやるぞ。立て立て。」「あっこはとても駄目って。」「あくもあかんもあるもんか。手前、・・・ 横光利一 「南北」
・・・もしも恋慕が花に交って花開くなら、やがてそのものは花のように散るであろう。何ぜなら、この丘の空と花との明るさは、巷の恋に代った安らかさを病人に与えるために他ならない。もしも彼らの間に恋の花が咲いたなら、間もなく彼らを取り巻く花と空との明るさ・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・彼らにとって美は目前に在るものの内にひそんでいる。机の上の果物、花瓶、草花。あるいは庭に咲く日向葵、日夜我らの親しむ親や子供の顔。あるいは我らが散歩の途上常に見慣れた景色。あるいは我々人間の持っているこの肉体。――すべて我々に最も近い存在物・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
・・・情が動くままに体が動く、花が散ると眠り鳥がさえずると飛び上がる。詩人ジョン・キーツはこの生活を憧憬して歌う、No, the bugle sounds no more,And twanging bow no more ;S・・・ 和辻哲郎 「霊的本能主義」
出典:青空文庫