・・・その時はこう云う彼の言も、単に一場の口頭語として、深く気にも止めませんでしたが、今になって思い合わすと、実はもうその言の中に傷しい後年の運命の影が、煙のように這いまわっていたのです。が、それは追々話が進むに従って、自然と御会得が参るでしょう・・・ 芥川竜之介 「開化の良人」
・・・ひどい目に会わすのはいつも男、会わされるのはいつも女、――そうよりほかに考えない。その癖ほんとうは女のために、始終男が悩まされている。三十番神を御覧なさい。わたしばかり悪ものにしていたでしょう。 小野の小町 神仏の悪口はおよしなさい。・・・ 芥川竜之介 「二人小町」
・・・しかも彼の胸の底で、手を合わすようにして「許してくれ許してくれ」と言い続けていた。自分の行くべき家は通り過ぎてしまったけれども気もつかなかった。ただわけもなくがむしゃらに歩いて行くのが、その子供を救い出すただ一つの手だてであるかのような気持・・・ 有島武郎 「卑怯者」
・・・ ――金石の湊、宮の腰の浜へ上って、北海の鮹と烏賊と蛤が、開帳まいりに、ここへ出て来たという、滑稽な昔話がある―― 人待石に憩んだ時、道中の慰みに、おのおの一芸を仕ろうと申合す。と、鮹が真前にちょろちょろと松の木の天辺へ這って、脚を・・・ 泉鏡花 「瓜の涙」
・・・面合すに憚りたれば、ソと物の蔭になりつ。ことさらに隔りたれば窃み聴かむよしもあらざれど、渠等空駕籠は持て来たり、大方は家よりして迎に来りしものならむを、手を空しゅうして帰るべしや。 一同が庵を去らむ時、摩耶もまた去らでやある、もの食わで・・・ 泉鏡花 「清心庵」
・・・ お互に用の有りそうな連中は、大概この座に居合わす。出先へこうした急使の覚えはいささかもないので、急な病気、と老人を持つ胸に応えた。「敵の間諜じゃないか。」と座の右に居て、猪口を持ちながら、膝の上で、箇条を拾っていた当家の主人が、ト・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・ 時に九月二日午前七時、伏木港を発する観音丸は、乗客の便を謀りて、午後六時までに越後直江津に達し、同所を発する直江津鉄道の最終列車に間に合すべき予定なり。 この憐むべき盲人は肩身狭げに下等室に這込みて、厄介ならざらんように片隅に踞り・・・ 泉鏡花 「取舵」
・・・頭はあげても顔見合すこともできず、ただ手をとり合うているばかりである。「省さん、わたしは嬉しい」 ようよう一こと言ったが、おとよはまた泣き伏すのである。「省さん、あとから手紙で申し上げますから、今夜は思うさま泣かしてください」・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・プロレタリヤは、行進曲に歩調を合すべきです。 自由を尊ぶなら、なぜ鏈を切って機械化から脱しようとしないのか。真に愛を人生に抱くなら、なぜ資本主義文明が、益々人間生活の不平等を造りつゝあるのに、黙止するのか。科学的精神を尊重するなら、この・・・ 小川未明 「芸術は革命的精神に醗酵す」
・・・其処には、青い空の下に、独り一軒の家を建て、其の中には静かに、稀にしか人と顔も合わすことなく日を送っている人がある。遠く隔った、都会の歓楽に酔うて叫んでいる賑かな声も聞かない。また、悲惨な犠牲者の狂い働いている騒がしい響きの混った物音も聞か・・・ 小川未明 「夕暮の窓より」
出典:青空文庫