・・・ことに先方に不幸でもあった場合に、向こうで述べるべき悔やみの言葉を宅から教わって暗記して行って、それをそのとおりに言おうとする時に、突然例の不思議な笑いが飛び出してくるのである。その時の苦しさは今でも忘れる事ができない。なかなかおかしいどこ・・・ 寺田寅彦 「笑い」
・・・話の筋をよく暗記しておいて、林が一と区切りする毎に、私も本を見ないで通訳をした。 学芸大会では拍手喝采だった。各小学校の校長先生たちや、郡長さん始め、県の役人なども沢山いるところで、私たちは非常に面目をほどこしてから、受持の先生に引率さ・・・ 徳永直 「こんにゃく売り」
・・・ 毎年庭の梅の散りかける頃になると、客間の床には、きまって何如璋の揮毫した東坡の絶句が懸けられるので、わたくしは老耄した今日に至ってもなお能く左の二十八字を暗記している。梨花淡白柳深青 〔梨花は淡白にして柳は深青柳絮飛時花・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・ 個人の幸福の基礎となるべき個人主義は個人の自由がその内容になっているには相違ありませんが、各人の享有するその自由というものは国家の安危に従って、寒暖計のように上ったり下ったりするのです。これは理論というよりもむしろ事実から出る理論と云・・・ 夏目漱石 「私の個人主義」
・・・女子が生涯娘なれば身は却て安気なる可きに、左りとては相済まずとて結婚したるこそ苦労の種を求めたるに似たれども、男女家に居るは天然の命ずる所にして、其居家の楽しみは以て苦しみを償うて余りある可し。故に結婚は独身時代の苦楽を倍にするの約束にして・・・ 福沢諭吉 「新女大学」
・・・夜雨秋寒うして眠就らず残燈明滅独り思うの時には、或は死霊生霊無数の暗鬼を出現して眼中に分明なることもあるべし。 蓋し氏の本心は、今日に至るまでもこの種の脱走士人を見捨てたるに非ず、その挙を美としてその死を憐まざるに非ず。今一証を示さんに・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・その口に説くところを聞けば主公の安危または外交の利害などいうといえども、その心術の底を叩てこれを極むるときは彼の哲学流の一種にして、人事国事に瘠我慢は無益なりとて、古来日本国の上流社会にもっとも重んずるところの一大主義を曖昧糢糊の間に瞞着し・・・ 福沢諭吉 「瘠我慢の説」
・・・同じ早苗姫を我ものとする為には親子の離反を厭わず、家国の安危を度外視するにしても、従来のように其動機を只外面からのみ照して、信玄とも云われようものが、何、仕て出来ないことがあろうかと云う名に動かされた行為とはせず、彼時代の圏境の裡に武将とし・・・ 宮本百合子 「印象」
・・・こういう願かけに、義弟の尊い生命の安危をたくしかねる私の心は、素朴な憤りにふるえた。こういうあわれな仕草で、自分の思いを表現するしかない人民の立場、しきたりが心に刻まれたのであった。 そういう憤ろしい思いで雨の中をのぼり下った琴平の大鳥・・・ 宮本百合子 「琴平」
・・・これだけの言葉は、こんにち、日本と世界のために暗記してでも、くりかえされる意義をもっている。わたしたちは、平和を、欲している。たった三ことのこの日本語こそ、どの国の言葉に訳しても三つの言葉にまとまって世界の良心につながっているのである。〔一・・・ 宮本百合子 「この三つのことば」
出典:青空文庫