・・・お土産に『柿本人麿』という本と、森杏奴が書いた『父の思い出』の本をくれました。十七貫だそうです。あのひとらしく楽しそうに正直にいろんな話をして、私も久しぶりで珍しく愉快でした。嫁さんを見つけてくれとたのまれました。私は若い女のひとは沢山知っ・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
・・・ 祖母の家の裏口の小溝の傍に一本杏の樹があった。花も実もつけない若木であったが柔かい緑玉色の円みを帯びた葉はゆたかに繁っていた。夏の嵐の或る昼間、ひょっと外へ出てその柔かい緑玉色の杏の叢葉が颯と煽られて翻ったとき、私の体を貫いて走った戦・・・ 宮本百合子 「青春」
・・・その客間で、「昔は杏ジャムやポルトガルの濁酒を売った小商人」今ではブルジョア化粧品屋でユロ男爵の息子にその一人娘を縁づかせている五十男のクルベルが、安芝居のような身ぶり沢山で、而も婿の生計を支えてやらなくてはならぬ愚痴を並べ、借金の話、娘の・・・ 宮本百合子 「バルザックに対する評価」
森鴎外には、何人かの子供さんたちのうちに二人のお嬢さんがあった。茉莉と杏奴というそれぞれ独特の女らしい美しい名を父上から貰っておられる。杏奴さんは小堀杏奴として、いわば自分の咲き出ている庭の垣の彼方を知らないことに何の不安・・・ 宮本百合子 「歴史の落穂」
出典:青空文庫