・・・なるほど木理は意外の業をする。それで古来木理の無いような、粘りの多い材、白檀、赤檀の類を用いて彫刻するが、また特に杉檜の類、刀の進みの早いものを用いることもする。御前彫刻などには大抵刀の進み易いものを用いて短時間に功を挙げることとする。なる・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・これはその壺以外は、左右も前面も、恐ろしいカカリであることを語っているのです。客は合点して、「あいよ」とその言葉通りに実に巧く振込みましたが、心中では気乗薄であったことも争えませんでした。すると今手にしていた竿を置くか置かぬかに、魚の中りか・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・わたくしは、いま手もとに統計をもたないけれど、病死以外の不慮の横死のみでも、年々幾万にのぼるか知れないのである。 鰯が鯨の餌食となり、雀が鷹の餌食となり、羊が狼の餌食となる動物の世界から進化して、まだ幾万年しかへていない人間社会にあって・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・彼はそこ以外ではいけないと思った。彼はそこでのことをいろいろに想像した。 龍介は他にお客がなかったとき恵子に「Zの海岸へ行く」都合をきいた。言ってしまって、自分でドキまぎした。 恵子は「どうして?」とききかえした。「……遊びにさ・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・おげんは意外な結果に呆れて、皆なの居るところへ急いで行って見た。そこには母親に取縋って泣顔を埋めているおさだを見た。「ナニ、何でもないぞや。俺の手が少し狂ったかも知れんが、おさださんに火傷をさせるつもりでしたことでは無いで」 とおげ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・松の多い静かな小山の上に遺骸が埋められた。墓地では讃美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、同級生などが佇立んで、この光景を眺めていた。 ある日、薄い色の洋傘を手にしたような都会風の婦人が馬場裏の高瀬の家を訪ねて来た。この・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・母親以外の親しいものを呼ぶにも、「ちゃあちゃん」としかまだ言い得なかった。こんな幼い子供が袖子の家へ連れられて来てみると、袖子の父さんがいる、二人ある兄さん達もいる、しかし金之助さんはそういう人達までも「ちゃあちゃん」と言って呼ぶわけではな・・・ 島崎藤村 「伸び支度」
・・・近とで十四万人の市民を殺した大地震と、十七年前、サンフランシスコの震火で二十八町四方を焼いたのと、この二つですが、こんどの地震は、ゆれ方だけは以上二つの場合にくらべると、ずっとかるかったのですが、人命以外の損害のひどかった点では、まるでくら・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・強いて言えば、おれは、めしを食うとき以外は、生きていないのである。ここに言う『めし』とは、生活形態の抽象でもなければ、生活意慾の概念でもない。直接に、あの茶碗一ぱいのめしのことを指して言っているのだ。あのめしを噛む、その瞬間の感じのことだ。・・・ 太宰治 「兄たち」
・・・ですけれども、やはり、何だかどうもあの先生は、私にとっても苦手でして、もうこんどこそ、どんなにたのまれてもお酒は飲ませまいと固く決心していても、追われて来た人のように、意外の時刻にひょいとあらわれ、私どもの家へ来てやっとほっとしたような様子・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
出典:青空文庫