・・・ しかし、こういうことが、良心あり、一片反抗の意気ある者にとって堪えられようか。私は、これを、いま芸術家の場合についていおうとするのだ。 芸術は、現実の凝視から産れる。現実を忘れて、そこに、吾人に価値ある芸術は存在しない。 私達・・・ 小川未明 「人間否定か社会肯定か」
・・・そら、駱駝の背中みたいなあの向う、あそこへ行きねえ。」と険突を食わされた。 駱駝の背中と言ったのは壁ぎわの寝床で、夫婦者と見えて、一枚の布団の中から薄禿の頭と櫛巻の頭とが出ている。私はその横へ行って、そこでもまたぼんやり立っていると、櫛・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・そりゃお酒を飲んだら赤くはなろうけど、端唄を転がすなんて、そんな意気な真似はお光さんの格にないんだから」「あんまりそうでもなかろうぜ。忘れもしねえが、何でもあれは清元の師匠の花見の時だっけ、飛鳥山の茶店で多勢芸者や落語家を連れた一巻と落・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・この女は近視だろうか、それとも、距離の感覚がまるでないのだろうかと、なんとなく迷惑していると、「いま、ちょっと出掛けて行きましたの」 その隙に話しに来た、――そんなことをされては困ると思った。私はむつかしい顔をした。 女はでかい・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・ ところが偶然というものは続きだしたら切りのないもので、そしてまた、それがこの世の中に生きて行くおもしろさであるわけですが、ある日、文子が客といっしょに白浜へ遠出をしてきて、そして泊ったのが何と私の勤めている宿屋だった。その客というのは・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・ どうせ、文学に対する考え方なぞ、人生に対する考え方とおんなじで、十人十色であり誰の作品にしろ、作者が意気ごんで待ち構えているほどには、いいかえれば、作者が満足する程度に、理解されることなぞ、まかりまちがっても有り得ないのであるから、な・・・ 織田作之助 「東京文壇に与う」
・・・先客があったり、後から誰か来合せたりすると彼は往きにもまして一層滅入った、一層圧倒された惨めな気持にされて帰らねばならぬのだ―― 彼は歯のすっかりすり減った日和を履いて、終点で電車を下りて、午下りの暑い盛りをだら/\汗を流しながら、Kの・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
・・・ぶしつけな不遜な私の態度を御赦しくださいませ――なおもなおも深く身を焦さねばならぬ煩悩の絆にシッカと結びつけられながら、身ぶるいするようなあの鉄枠やあるいは囚舎の壁、鉄扉にこの生きた魂、罪に汚れながらも自分のものとしてシッカと抱いていねばな・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・が彼は躍起となって、その大きな身体を泳ぐような恰好して、飛びついては振り飛ばされ、飛びついては振り飛ばされながらも、勝ち誇った態度の浪子夫人に敗けまいと意気ごんだ。「梅坊主! 梅坊主」 私はこう心の中に繰返して笑いをこらえていたが、・・・ 葛西善蔵 「遊動円木」
・・・と、直ぐ家を飛び出して半丁程離れた弟の家へ行き懐中電燈を持って直ぐ来て呉れと言って、また走って帰りました。弟二人、次弟の妻、それの両親など飛んで来て瞳孔を視ましたが開いては居ません。弟達は直ぐ電報を打ったり医者を呼ぶために出かけて行きました・・・ 梶井久 「臨終まで」
出典:青空文庫