・・・洋一はそろそろ不安になった。遺言、――と云う考えも頭へ来た。「浅川の叔母さんはまだいるでしょう?」 やっと母は口を開いた。「叔母さんもいるし、――今し方姉さんも来た。」「叔母さんにね、――」「叔母さんに用があるの?」・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・「それはトックの遺言状ですか?」「いや、最後に書いていた詩です。」「詩?」 やはり少しも騒がないマッグは髪を逆立てたクラバックにトックの詩稿を渡しました。クラバックはあたりには目もやらずに熱心にその詩稿を読み出しました。しか・・・ 芥川竜之介 「河童」
・・・優しい威厳に充ち満ちた上宮太子などの兄弟です。――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、泥烏須のようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」「まあ、御待ちなさい。御前さん・・・ 芥川竜之介 「神神の微笑」
・・・ 治修はいつか別人のように、威厳のある態度に変っていた。この態度を急変するのは治修の慣用手段の一つである。三右衛門はやはり目を伏せたまま、やっと噤んでいた口を開いた。しかしその口を洩れた言葉は「なぜ」に対する答ではない。意外にも甚だ悄然・・・ 芥川竜之介 「三右衛門の罪」
・・・彼はただ粟野さんの前に彼自身の威厳を保ちたいのである。もっとも威厳を保つ所以は借りた金を返すよりほかに存在しないと云う訣ではない。もし粟野さんも芸術を、――少くとも文芸を愛したとすれば、作家堀川保吉は一篇の傑作を著わすことに威厳を保とうと試・・・ 芥川竜之介 「十円札」
・・・そして今までとは打って変って神々しい威厳でクララを圧しながら言葉を続けた。「神の御名によりて命ずる。永久に神の清き愛児たるべき処女よ。腰に帯して立て」 その言葉は今でもクララの耳に焼きついて消えなかった。そしてその時からもう世の常の・・・ 有島武郎 「クララの出家」
・・・ お前たちの母上の遺言書の中で一番崇高な部分はお前たちに与えられた一節だった。若しこの書き物を読む時があったら、同時に母上の遺書も読んでみるがいい。母上は血の涙を泣きながら、死んでもお前たちに会わない決心を飜さなかった。それは病菌をお前・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・さすが高位の御身とて、威厳あたりを払うにぞ、満堂斉しく声を呑み、高き咳をも漏らさずして、寂然たりしその瞬間、先刻よりちとの身動きだもせで、死灰のごとく、見えたる高峰、軽く見を起こして椅子を離れ、「看護婦、メスを」「ええ」と看護婦の一・・・ 泉鏡花 「外科室」
・・・これにてらてらと小春の日の光を遮って、やや蔭になった頬骨のちっと出た、目の大きい、鼻の隆い、背のすっくりした、人品に威厳のある年齢三十ばかりなるが、引緊った口に葉巻を啣えたままで、今門を出て、刈取ったあとの蕎麦畠に面した。 この畠を前に・・・ 泉鏡花 「政談十二社」
・・・――これは怪しからず、天津乙女の威厳と、場面の神聖を害って、どうやら華魁の道中じみたし、雨乞にはちと行過ぎたもののようだった。が、何、降るものと極れば、雨具の用意をするのは賢い。……加うるに、紫玉が被いだ装束は、貴重なる宝物であるから、驚破・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
出典:青空文庫