・・・ いつぞやらん、その松任より、源平島、水島、手取川を越えて、山に入る、辰口という小さな温泉に行きて帰るさ、件の茶屋に憩いて、児心に、ふと見たる、帳場にはあらず、奥の別なる小さき部屋に、黒髪の乱れたる、若き、色の白き、痩せたる女、差俯向き・・・ 泉鏡花 「一景話題」
・・・ 公園の茶店に、一人静に憩いながら、緋塩瀬の煙管筒の結目を解掛けつつ、偶と思った。…… 髷も女優巻でなく、わざとつい通りの束髪で、薄化粧の淡洒した意気造。形容に合せて、煙草入も、好みで持った気組の婀娜。 で、見た処は芸妓の内証歩・・・ 泉鏡花 「伯爵の釵」
・・・――樹島は背戸畑の崩れた、この日当りの土手に腰を掛けて憩いつつ、――いま言う――その写真のぬしを正のもので見たのである。 その前に、渠は母の実家の檀那寺なる、この辺の寺に墓詣した。 俗に赤門寺と云う。……門も朱塗だし、金剛神を安・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・我らのほかにも旅人三人ばかり憩い居けるが、口々にあらずもがなのおそろしき雨かなとつぶやき、この家の主が妻は雷をおそれて病める人のようにうちふしなやむ。 されどとかくする中、さしもの雷雨もいささか勢弱りければ、夜に入らぬ中にとてまた車を駛・・・ 幸田露伴 「知々夫紀行」
・・・偶ま中路暑に苦み樹下に憩い携うる所の一新聞紙を披いて之を閲するに、中に載する有りチシヨンの博士会一文題を発し賞を懸けて能く応ずる者あるを募る。其題に曰く学術技科の進闡せしをば人の心術風俗に於て益有りしと為す乎将た害ありしと為す乎とルーソー之・・・ 幸徳秋水 「文士としての兆民先生」
・・・赤い車海老はパセリの葉の蔭に憩い、ゆで卵を半分に切った断面には、青い寒天の「壽」という文字がハイカラにくずされて画かれていた。試みに、食堂のなかを覗くと、奉仕の品品の饗応にあずかっている大学生たちの黒い密林のなかを白いエプロンかけた給仕の少・・・ 太宰治 「逆行」
・・・ひとに憩いを与え、光明を投げてやるような作品を書くのに、才能だけではいけないようです。もしも、あなたがこれから十年二十年とこのにくさげな世のなかにどうにかして炬火きどりで生きとおして、それから、もいちど忘れずに私をお呼びくだされたなら、私、・・・ 太宰治 「猿面冠者」
・・・ されど、 憩いを知らぬ帆は、 嵐の中にこそ平穏のあるが如くに、 せつに狂瀾怒濤をのみ求むる也。 あわれ、あらしに憩いありとや。鶴は所謂文学青年では無い。頗るのんきな、スポーツマンである。けれども、恋人の森ち・・・ 太宰治 「犯人」
・・・だ、この薄暗いバアは、乙彦と、さちよが、奇態な邂逅したところ、いま自分の腰かけているこの灰色のソファは、乙彦が追いつめられて、追いつめられて、天地にたった一つの、最後に見つけた、鳥の巣、狐の穴、一夜の憩いの椅子であったこと、高須は、なんにも・・・ 太宰治 「火の鳥」
・・・僕は年五十に垂んとした其の年の秋、始めて銀座通のカッフェーに憩い僕の面前に紅茶を持運んで来た女給仕人を見ても、二十年前ライオン開店の当時に於けるが如く嫌悪の情を催さなかった。是が理由の第三である。 僕は啻にカッフェーの給仕女のみならず、・・・ 永井荷風 「申訳」
出典:青空文庫