・・・ 鶯の声も既に老い、そろそろ桜がさきかけるころ、わたくしはやっと病褥を出たが、医者から転地療養の勧告を受け、学年試験もそのまま打捨て、父につれられて小田原の町はずれにあった足柄病院へ行く事になった。(東京で治療を受けていた医者は神田神保・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・そこで自然と、物には専門家と素人の差別が生ずるのだと、珍々先生は自己の廃頽趣味に絶対の芸術的価値と威信とを附与して、聊か得意の感をなし、荒みきった生涯の、せめてもの慰藉にしようと試みるのであったが、しかし何となくその身の行末空恐しく、ああ人・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・平生胸底に往来している感想に能く調和する風景を求めて、瞬間の慰藉にしたいためである。その何が故に、また何がためであるかは、問詰められても答えたくない。唯おりおり寂寞を追求して止まない一種の慾情を禁じ得ないのだというより外はない。 この目・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・それでもお石の噂をされることがせめてもの慰藉である。みんなに揶揄われる度に切ない情がこみあげて来てそうして又胸がせいせいとした。其秋からげっそりと寂しいマチが彼の心に反覆された。威勢のいい赤は依然として太十にじゃれついて居た。太十は数年来西・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・かく観ずる裡に、人にも世にも振り棄てられたる時の慰藉はあるべし。かく観ぜんと思い詰めたる今頃を、わが乗れる足台は覆えされて、踵を支うるに一塵だになし。引き付けられたる鉄と磁石の、自然に引き付けられたれば咎も恐れず、世を憚りの関一重あなたへ越・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・その時医者の話さ。この頃のインフルエンザは性が悪い、じきに肺炎になるから用心をせんといかんと云ったが――実に夢のようさ。可哀そうでね」と言い掛けて厭な寒い顔をする。「へえ、それは飛んだ事だった。どうしてまた肺炎などに変じたのだ」と心配だ・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・その当時君は文学者をもって自ら任じていないなどとは夢にも知らなかったので、同業者同社員たる余の言葉が、少しは君に慰藉を与えはしまいかという己惚があったんだが、文士たる事を恥ずという君の立場を考えて見ると、これは実際入らざる差し出た所為であっ・・・ 夏目漱石 「長谷川君と余」
・・・すべての怨、すべての憤、すべての憂と悲みとはこの怨、この憤、この憂と悲の極端より生ずる慰藉と共に九十一種の題辞となって今になお観る者の心を寒からしめている。冷やかなる鉄筆に無情の壁を彫ってわが不運と定業とを天地の間に刻みつけたる人は、過去と・・・ 夏目漱石 「倫敦塔」
・・・折にふれ物に感じて思い出すのが、せめてもの慰藉である、死者に対しての心づくしである。この悲は苦痛といえば誠に苦痛であろう、しかし親はこの苦痛の去ることを欲せぬのである。 死にし子顔よかりき、をんな子のためには親をさなくなりぬべしなど、古・・・ 西田幾多郎 「我が子の死」
・・・ こうした僕の性癖は、一つにはまた、環境からも来て居るのである。医者という職業上から、父は患者以外の来客を煩さがって居た。父の交際法は西洋式で、いつも倶楽部でばかり人に会って居た。そこで僕の家の家風全体が、一体に訪問客を悦ばなかった。特・・・ 萩原朔太郎 「僕の孤独癖について」
出典:青空文庫