・・・けれども、会えばいつも以前のままの学友気質で、無遠慮な口をきき合うのです。この日も鷹見は、帰路にぜひ寄れと勧めますから、上田とともに三人連れ立って行って、夫人のお手料理としては少し上等すぎる馳走になって、酒も飲んで「あの時分」が始まりました・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・いかなるイデアリストの詩人、思想家も、彼が童貞を失った後にそれ以前のような至醇なる恋愛賛美が書けるはずはない。自分の例を引けば、「異性の内に自己を見出さんとする心」を書いたとき私はまだ童貞であった。性交を賛美しつつも、童貞であったのだ。・・・ 倉田百三 「学生と生活」
・・・彼は、どこかで以前、そういう経験をしたように思った。どこだったか、一寸思い出せなかった。小学校へ通っている時、先生から、罰を喰った。その時、悪いことをするつもりがなくして、やったことが、先生から見ると悪いことだったような気もした。いや、たし・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・けれども以前のように浮き立たない。「どうもやはり違った猪口だと酒も甘くない、まあ止めて飯にしようか。」とやはり大層沈んでいる。細君は余り未練すぎるとややたしなめるような調子で、「もういい加減にお諦らめなさい。」ときっばり言っ・・・ 幸田露伴 「太郎坊」
・・・状今方貸小袖を温習かけた奥の小座敷へ俊雄を引き入れまだ笑ったばかりの耳元へ旦那のお来臨と二十銭銀貨に忠義を売るお何どんの注進ちぇッと舌打ちしながら明日と詞約えて裏口から逃しやッたる跡の気のもめ方もしや以前の歌川へ火が附きはすまいかと心配あり・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・許し物と云って、其の中に口伝物が数々ございます。以前は名人が多かったものでございます。觀世善九郎という人が鼓を打ちますと、台所の銅壺の蓋がかたりと持上り、或は屋根の瓦がばら/\/\と落ちたという、それが為瓦胴という銘が下りたという事を申しま・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・知る人もすくない遠い異郷の旅なぞをしてみ、帰国後は子供のそばに暮らしてみ、次第に子供の世界に親しむようになってみると、以前に足手まといのように思ったその自分の考え方を改めるようになった。世はさびしく、時は難い。明日は、明日はと待ち暮らしてみ・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・どうかするとある家の前で立ち留まって戸口や窓の方を見ることがあったが、間もなく、最初は緩々と、そのうちにまた以前のような早足になって、人々の群に付いて来たのである。その間老人は、いつも右の手をずぼんの隠しに入れて、その中にある貨幣を勘定して・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・だからもし大きなむすこが腹をたてて帰って来て、庭先でどなりでもするような事があると、おばあさんは以前のような、小さい、言う事をきく子どもにしようと思っただけで、即座にちっぽけに見る事もできましたし、孫たちがよちよち歩きで庭に出て来るのを見る・・・ 著:ストリンドベリアウグスト 訳:有島武郎 「真夏の夢」
・・・ 私はまた以前のとおりに、からだを横たえながら言う。「あの頃の貴婦人はね、宮殿のお庭や、また廊下の階段の下の暗いところなどで、平気で小便をしたものなんだ。窓から小便をするという事も、だから、本来は貴族的な事なんだ。」「お酒お飲み・・・ 太宰治 「朝」
出典:青空文庫