・・・ 日本人は一句一句、力を入れて言うのです。「私の主人は香港の日本領事だ。御嬢さんの名は妙子さんとおっしゃる。私は遠藤という書生だが――どうだね? その御嬢さんはどこにいらっしゃる」 遠藤はこう言いながら、上衣の隠しに手を入れると・・・ 芥川竜之介 「アグニの神」
・・・ではその人間とはどんなものだと云うと、一口に説明する事は困難だが、苦労人と云う語の持っている一切の俗気を洗ってしまえば、正に菊池は立派な苦労人である。その証拠には自分の如く平生好んで悪辣な弁舌を弄する人間でも、菊池と或問題を論じ合うと、その・・・ 芥川竜之介 「兄貴のような心持」
・・・「どんな事と云って、そう一口には申せませんがな。――しかし、貴方がたは、そんな話をお聞きなすっても、格別面白くもございますまい。」「可哀そうに、これでも少しは信心気のある男なんだぜ。いよいよ運が授かるとなれば、明日にも――」「信・・・ 芥川竜之介 「運」
・・・修理はじっと宇左衛門の顔を見ながら、一句一句、重みを量るように、「その前に、今一度出仕して、西丸の大御所様へ、御目通りがしたい。どうじゃ。十五日に、登城させてはくれまいか。」 宇左衛門は、黙って、眉をひそめた。「それも、たった一度じ・・・ 芥川竜之介 「忠義」
・・・だがまさか――まさかその麦酒のコップへ、あの婆が舌を入れて、一口頂戴したって次第でもなかろう。それならかまわないから、干してしまい給え。」――こう云う具合に泰さんは、いろいろ沈んだ相手の気を引き立てようとしましたが、新蔵は益々ふさぐ一方で、・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ ――ああ、一口、水がほしい―― 実際、信也氏は、身延山の石段で倒れたと同じ気がした、と云うのである。 何より心細いのは、つれがない。樹の影、草の影もない。噛みたいほどの雨気を帯びた辻の風も、そよとも通わぬ。 ……その冷く快・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・で、般若は一挺の斧を提げ、天狗は注連結いたる半弓に矢を取添え、狐は腰に一口の太刀を佩く。 中に荒縄の太いので、笈摺めかいて、灯した角行燈を荷ったのは天狗である。が、これは、勇しき男の獅子舞、媚かしき女の祇園囃子などに斉しく、特に夜に入っ・・・ 泉鏡花 「茸の舞姫」
一 朝――この湖の名ぶつと聞く、蜆の汁で。……燗をさせるのも面倒だから、バスケットの中へ持参のウイスキイを一口。蜆汁にウイスキイでは、ちと取合せが妙だが、それも旅らしい。…… いい天気で、暖かかった・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・へ、わかれわかれに狩入ったのが、ものに隔てられ、巌に遮られ、樹に包まれ、兇漢に襲われ、獣に脅かされ、魔に誘われなどして、日は暗し、……次第に路を隔てつつ、かくて両方でいのちの限り名を呼び合うのである。一句、一句、会話に、声に――がある……が・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・ とややありて切なげにいいし一句にさえ、呼吸は三たびぞ途絶えたる。昼中の日影さして、障子にすきて見ゆるまで、空蒼く晴れたればこそかくてあれ、暗くならば影となりて消えや失せむと、見る目も危うく窶れしかな。「切のうござんすか。」 ミ・・・ 泉鏡花 「誓之巻」
出典:青空文庫