・・・しかし、お町の――一説では、上流五里七里の山奥から山爺は、――どの客にも言うのだそうである。 水と、柳のせいだろう。女中は皆美しく見えた。もし、妻女、娘などがあったら、さぞ妍艶であろうと察しらるる。 さて、「いらして、また、おいで遊・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・ 豪雨は今日一日を降りとおして更に今夜も降りとおすものか、あるいはこの日暮頃にでも歇むものか、もしくは今にも歇むものか、一切判らないが、その降り止む時刻によって恐水者の運命は決するのである。いずれにしても明日の事は判らない。判らぬ事には・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・おッ母さんがやって来るのも、その相談だから、そのつもりで、吉弥に対する一切の勘定書きを拵えてもらいましょう」 こう言って、青木が僕の方を見た時には、僕の目に一種の勝利、征服、意趣返し、または誇りとも言うべき様子が映ったので、ひょッとする・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・彦少名命を祀るともいうし、神功皇后と応神天皇とを合祀するともいうし、あるいは女体であるともいうが、左に右く紀州の加太の淡島神社の分祠で、裁縫その他の女芸一切、女の病を加護する神さまには違いない。だが、この寺内の淡島堂は神仏混交の遺物であって・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・恐らく今日の切迫した時代では到底思い泛べる事の出来ない畸人伝中の最も興味ある一節であろう。 椿岳の女道楽もまた畸行の一つに数うべきである。が、爰に一つ註釈を加えねばならないのは元来江戸のいわゆる通人間には情事を風流とする伝襲があったので・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・緑雨は笑止しがって私に話したが、とうとう『おぼえ帳』の一節となった。 上田博士が帰朝してから大学は俄に純文学を振って『帝国文学』を発刊したり近松研究会を創めたりした。緑雨は竹馬の友の万年博士を初め若い文学士や学生などと頻りに交際していた・・・ 内田魯庵 「斎藤緑雨」
・・・丁度死んでしまったものが、もう用がなくなったので、これまで骨を折って覚えた言語その外の一切の物を忘れてしまうように、女房は過去の生活を忘れてしまったものらしい。 女房は市へ護送せられて予審に掛かった。そこで未決檻に入れられてから、女房は・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・彼等は、大学を捨てたばかりでなく、一切の都会的享楽から離れて、農村に走り、農奴と伍した。そして、自から耕牧して、彼等と共に、苦楽を分った。彼等の生活が正しいばかりでなく、愛するためには、身を以て殉ぜんとしたところに、真実さがなければならぬ。・・・ 小川未明 「純情主義を想う」
・・・そして、自分でも、その歌の一節を口ずさみなさいました。「ねえ、おかよや、おまえ、この子守唄をきいたことがあって?」といって、箱の中から一枚のレコードを抜いて、盤にかけながら、「私は、この唄をきくと悲しくなるの、東京に生まれて、田舎の・・・ 小川未明 「谷にうたう女」
・・・五 私はアルツィバーセフの作にあった一節、彼のピラトがシモンに向って、「おれはあのユダヤの乞食哲学者に対しては不思議な感じがした。そしてその云うことに対して何物をか感ぜぬわけには行かなかった。然し彼でないお前は一体何んであるか?・・・ 小川未明 「反キリスト教運動」
出典:青空文庫