・・・珍々先生はこんな事を考えるのでもなく考えながら、多年の食道楽のために病的過敏となった舌の先で、苦味いとも辛いとも酸いとも、到底一言ではいい現し方のないこの奇妙な食物の味を吟味して楽しむにつけ、国の東西時の古今を論ぜず文明の極致に沈湎した人間・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・何故なれば、僕は文士ではあるが東京に生れたので、自分ではさほど世間に晦いとも思っていなかったが、何ぞ図らむ。斯くの如き奇怪なる人物が銀座街上に跋扈していようとは、僕年五十になろうとする今日まで全く之を知る機会がなかったからである。 彼等・・・ 永井荷風 「申訳」
・・・荒廃のいとも気高き眺めの中には、美しき昔のさまの影もあはれや、遊楽後を絶ちて唯だ変りなきその池水のみ、昔の秩序と静寧の中に息ひたるこそ嬉しけれ。という句がある。 自分が頻に芝山内の霊廟を崇拝して止まないのも全・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・ろとは情ない、まあ落ちても善いから当り前の奴でやってみようと抗議を申し込む、もし採用されなかったら丈夫玉砕瓦全を恥ずとか何とか珍汾漢の気きえんを吐こうと暗に下拵に黙っている、とそれならこれにしようと、いとも見苦しかりける男乗をぞあてがいける・・・ 夏目漱石 「自転車日記」
・・・儚い自分、はかない制限された頭脳で、よくも己惚れて、あんな断言が出来たものだ、と斯う思うと、賤しいとも浅猿しいとも云いようなく腹が立つ。で、ある時小川町を散歩したと思い給え。すると一軒の絵双紙屋の店前で、ひょッと眼に付いたのは、今の雑誌のビ・・・ 二葉亭四迷 「予が半生の懺悔」
・・・さあ、それ、しっかりひっぱれ、いいか、よいとこしょ、おい、ブチュコ、縄がたるむよ、いいとも、そらひっぱれ、おい、おい、ビキコ、そこをはなせ、縄を結んで呉れ、よういやさ、そらもう一いき、よおいやしゃ、なんてまあこんな工合です。 ところがあ・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・特務曹長「饑餓陣営のたそがれの中犯せる罪はいとも深しああ夜のそらの青き火もてわれらがつみをきよめたまえ。」曹長「マルトン原のかなしみのなかひかりはつちにうずもれぬああみめぐみのあめを下しわれらがつ・・・ 宮沢賢治 「饑餓陣営」
・・・従って教育も男子と同等にさせてやり度いとも思う。然し考えて見なさい、日本の女性の裡に幾人、大学教育を受け得、又受けようとする婦人があるか、彼女等は自分で希わないのだ、希わないものに何故無理にもやらなければならないのか、豚に真珠だ。」と申すか・・・ 宮本百合子 「C先生への手紙」
・・・ すべて大きくまとまった美と云うものは、多くの場合その色彩の工合で美くしいとも思い又は腹立たしいほど見っともなくも見えるものである。 私達のみなりに対する注意と用意が必要で、又他人の身なりを見る時と同じ気持がいるものだと思う。 ・・・ 宮本百合子 「繊細な美の観賞と云う事について」
・・・すると、お菓子のような将校は、いとも優雅にそのハンカチーフを拾って――どうぞ――とフランス語で云いながら渡してくれた。 いよいよメーデーの朝になった。 くたびれていたので、目が覚めたのは九時すぎだった。びっくりしてベッドの上へ起き上・・・ 宮本百合子 「ワルシャワのメーデー」
出典:青空文庫