・・・ 土蔵の奥には昔から、火伏せの稲荷が祀ってあると云う、白木の御宮がありました。祖母は帯の間から鍵を出して、その御宮の扉を開けましたが、今雪洞の光に透かして見ると、古びた錦の御戸帳の後に、端然と立っている御神体は、ほかでもない、この麻利耶・・・ 芥川竜之介 「黒衣聖母」
・・・太郎稲荷の眷属が悪戯をするのが、毎晩のようで、暗い垣から「伊作、伊作」「おい、お祖母さん」くしゃんと嚔をして消える。「畜生め、またうせた。」これに悩まされたためでもあるまい。夜あそびをはじめて、ぐれだして、使うわ、ねだるわ。勘当ではない自分・・・ 泉鏡花 「開扉一妖帖」
・・・煩っていなさる母さんの本復を祈って願掛けする、「お稲荷様のお賽銭に。」と、少しあれたが、しなやかな白い指を、縞目の崩れた昼夜帯へ挟んだのに、さみしい財布がうこん色に、撥袋とも見えず挟って、腰帯ばかりが紅であった。「姉さんの言い値ほどは、お手・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・の、これは虎の門の、飛んで雑司ヶ谷のだ、いや、つい大木戸のだと申して、油皿の中まで、十四五挺、一ツずつ消しちゃ頂いて、それで一ツずつ、生々とした香の、煙……と申して不思議にな、一つ色ではございません。稲荷様のは狐色と申すではないけれども、大・・・ 泉鏡花 「菎蒻本」
・・・入って見ると、裏道の角に、稲荷神の祠があって、幟が立っている。あたかも旧の初午の前日で、まだ人出がない。地口行燈があちこちに昼の影を浮かせて、飴屋、おでん屋の出たのが、再び、気のせいか、談話中の市場を髣髴した。 縦通りを真直ぐに、中六を・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・御いものあとさへ取候御祝儀御進物にはけしくらゐほどのいもあとも残り不申候やうにぞんじけしをのぞき差上候処文政七申年はしか流行このかた御用重なる御重詰御折詰もふんだんに達磨の絵袋売切らし私念願かな町のお稲荷様の御利生にて御得意旦那のお子さまが・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・私を送って行った足で上りこむなり、もう嫌味たっぷりに、――高津神社の境内にある安井稲荷は安井さんといって、お産の神さんだのに、この子の母親は安井さんのすぐ傍で生みながら、産の病で死んでしまったとは、何と因果なことか……と、わざとらしく私の生・・・ 織田作之助 「アド・バルーン」
・・・弁財天がある。稲荷大明神がある。弘法大師もあれば、不動明王もある。なんでも来いである。ここへ来れば、たいていの信心事はこと足りる。ないのはキリスト教と天理教だけである。どこにどれがあるのか、何を拝んだら、何に効くのか、われわれにはわからない・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・雁次郎横丁と呼ぶのか、成駒屋の雁次郎とどんなゆかりがあるのか、私は知らないが、併し寿司屋や天婦羅屋や河豚料理屋の赤い大提灯がぶら下った間に、ふと忘れられたように格子のはまったしもた家があったり、地蔵や稲荷の蝋燭の火が揺れたりしているこの横丁・・・ 織田作之助 「世相」
・・・ 昨日もちょうどそんな事を考えながら歩いて、つまるところがペンキの看版かきになろうが稲荷や八幡様の奉納絵を画こうがかまわない。やるところまでやると決心したからには、わき目もふれないなどしきりに思い続けて例の森まで行った。 どこを画こ・・・ 国木田独歩 「郊外」
出典:青空文庫