・・・が大神宮様へ二つ、お仏器が荒神様へ一つ、鬼子母神様と摩利支天様とへ各一つ宛、御祖師様へ五つ、家廟へは日によって違うが、それだけは毎日欠かさず御茶を供えて、そらから御膳をあげるので、まだ此上に先祖代々の忌日命日には仏前へ御糧供というを上げねば・・・ 幸田露伴 「少年時代」
・・・だから世人は子規の忌日を糸瓜忌と称え、子規自身の事を糸瓜仏となづけて居る。余が十余年前子規と共に俳句を作った時に 長けれど何の糸瓜とさがりけりという句をふらふらと得た事がある。糸瓜に縁があるから「猫」と共に併せて地下に捧げる。・・・ 夏目漱石 「『吾輩は猫である』中篇自序」
・・・この頃は忌日が来ようが盂蘭盆が来ようが誰一人来る者もない。最も此処へ来てから足かけ五年だからナ。遺稿はどうしたかしらん 大方出来ないのは極ってる。誰も墓参りにも来ない者が遺稿の事など世話してくれる者はない。お隣の華族様も最う大分地獄馴れて蚯・・・ 正岡子規 「墓」
・・・霊屋のそばにはまだ妙解寺は出来ていぬが、向陽院という堂宇が立って、そこに妙解院殿の位牌が安置せられ、鏡首座という僧が住持している。忌日にさきだって、紫野大徳寺の天祐和尚が京都から下向する。年忌の営みは晴れ晴れしいものになるらしく、一箇月ばか・・・ 森鴎外 「阿部一族」
出典:青空文庫