・・・今柳橋で美人に拝まれる月も昔は「入るべき山もなし」、極の素寒貧であッた。実に今は住む百万の蒼生草,実に昔は生えていた億万の生草。北は荒川から南は玉川まで、嘘もない一面の青舞台で、草の楽屋に虫の下方,尾花の招引につれられて寄り来る客は狐か、鹿・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・「お前頼んでくれんか?」「ええとも、あの餓鬼ったら、仕様のない奴や。」「そうしてくれのう。土産も何もあらへんけど、二円五十銭持ってるのやが、どうにかならんかのう?」「要るもんか。」「要らんか、頼むぜ。」「行こ行こ。」・・・ 横光利一 「南北」
・・・彼は彼女のその歎声の秘められたような美しさを聴くために、戸外から手に入る花という花を部屋の中へ集め出した。 薔薇は朝毎に水に濡れたまま揺れて来た。紫陽花と矢車草と野茨と芍薬と菊と、カンナは絶えず三方の壁の上で咲いていた。それは華やかな花・・・ 横光利一 「花園の思想」
・・・り動かして行く風が消えるように通りすぎたあとには、――また田畑の色が豊かに黄ばんで来たのを有頂天になって喜んでいるらしいおしゃべりな雀が羽音をそろえて屋根や軒から飛び去って行ったあとには、ただ心に沁み入るような静けさが残ります。葉を打つ雨の・・・ 和辻哲郎 「ある思想家の手紙」
・・・ たとえば、日本画においては、ある一つの色で広い画面をムラなく塗りつぶすということは、非常に技巧の要る事だそうである。しかも日本画家はこの困難な仕事に打ち克とうと努力している。洋画にとっては、ムラなく単色に塗られた広い画面のごときは、美・・・ 和辻哲郎 「院展遠望」
出典:青空文庫