・・・しかしながらただ今も申し上げましたとおり、かならずしも誰にでも入ることのできる道ではない。 ここにいたってこういう問題が出てくる。文学者にもなれず学校の先生にもなれなかったならば、それならば私は後世に何をも遺すことはできないかという問題・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・ 勿論以上を以て尽きない、全福音書を通じて直接間接に来世を語る言葉は到る所に看出さる、而して是は単に非猶太的なる路加伝に就て言うたに過ぎない、新約聖書全体が同じ思想を以て充溢れて居る、即ち知る聖書は来世の実現を背景として読むべき書な・・・ 内村鑑三 「聖書の読方」
・・・何時も母の涙の光った眼が自分の上に注がれて居るからである。これは架空的の宗教よりも強く、また何等根拠のない道徳よりももっと強くその子供の上に感化を与えている。神を信ずるよりも母を信ずる方が子供に取っては深く、且つ強いのである。実に母と子の関・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・凡ての窮局によって人間は初めてある信仰に入る。自ら眼覚める。今の世の中の博愛とか、慈善とかいうものは、他人が生活に苦しみ、また境遇に苦しんでいる好い加減の処でそれを救い、好い加減の処でそれを棄てる。そして、終にこの人間に窮局まで達せしめぬ。・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
・・・ それも、そのはずで、おじいさんは若い時分から弓を射ることが上手で、どんな小さな鳥でも、ねらえば、かならず射落としたものです。よく、晩方の空を飛んでいくかりを射落としたり、はたけで遊んでいるすずめを射とめたりしました。だからおじいさんを・・・ 小川未明 「からすとかがし」
・・・氷がとつぜん二つに割れて、しかもそれが、箭を射るように沖の方へ流れていってしまうことは、めったにあるものでない。こんな不思議なことは、見たことがない。それにしても、あの氷といっしょに流されてどこかへいってしまった三人を、どうしたらいいものだ・・・ 小川未明 「黒い人と赤いそり」
・・・そこで駈けだすようにして、車夫に教わったその横町へ入ると、なるほど山本屋という軒行灯が目に入った。 貝殻を敷いた細い穢い横町で、貧民窟とでもいいそうな家並だ。山本屋の門には火屋なしのカンテラを点して、三十五六の棒手振らしい男が、荷籠を下・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・何しろこれまで船に乗り通しで、陸で要る物と言っちゃ下駄一足持たないんでしょう、そんなんですから、当人で見るとまた、私たちの考えるようにゃ行かないらしいんですね」「ですがねえ。私なぞの考えで見ると、何も家をお持ちなさるからって、暮に遣う煤・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・筈の洋燈の灯が、ジュウジュウと音を立てて暗くなって来た、私はその音に不図何心なく眼が覚めて、一寸寝返りをして横を見ると、呀と吃驚した、自分の直ぐ枕許に、痩躯な膝を台洋燈の傍に出して、黙って座ってる女が居る、鼠地の縞物のお召縮緬の着物の色合摸・・・ 小山内薫 「女の膝」
・・・石づくりの狐が一匹居る。口に隙間がある。凶のおみくじをひいたときは、その隙間へおみくじを縛りつけて置く。すると、まんまと凶を転じて吉とすることが出来る。「どうか吉にしたっとくなはれ」 祈る女の前に賽銭箱、頭の上に奉納提灯、そして線香・・・ 織田作之助 「大阪発見」
出典:青空文庫