・・・画集の重たいのを取り出すのさえ常に増して力が要るな! と思った。しかし私は一冊ずつ抜き出してはみる、そして開けてはみるのだが、克明にはぐってゆく気持はさらに湧いて来ない。しかも呪われたことにはまた次の一冊を引き出して来る。それも同じことだ。・・・ 梶井基次郎 「檸檬」
・・・杣の入るべき方とばかり、わずかに荊棘の露を払うて、ありのままにしつらいたる路を登り行けば、松と楓樹の枝打ち交わしたる半腹に、見るから清らなる東屋あり。山はにわかに開きて鏡のごとき荻の湖は眼の前に出でぬ。 円座を打ち敷きて、辰弥は病後の早・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・いやそろそろ政略が要るようになった。妙だぞ。妙だぞ。ようやく無事に苦しみかけたところへ、いい慰みが沸いて来た。充分うまくやって見ようぞ。ここがおれの技倆だ。はて事が面白くなって来たな。 光代は高がひいひいたもれ。ただ一撃ちに羽翼締めだ。・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 会堂に着くと、入口の所へ毛布を丸めて投げ出して、木村の後ろについて内に入ると、まず花やかな煌々としたランプの光が堂にみなぎっているのに気を取られました。これは一里の間、暗い山の手の道をたどって来たからでしょう。次にふわりとした暖かい空・・・ 国木田独歩 「あの時分」
一 秋の中過、冬近くなると何れの海浜を問ず、大方は淋れて来る、鎌倉も其通りで、自分のように年中住んで居る者の外は、浜へ出て見ても、里の子、浦の子、地曳網の男、或は浜づたいに往通う行商を見るばかり、都人士ら・・・ 国木田独歩 「運命論者」
・・・舞台には蝋燭の光眼を射るばかり輝きたり。母が眼のふち赤らめて泣きたまうを訝しく思いつ、自分は菓子のみ食いてついに母の膝に小さき頭載せそのまま眠入りぬ。母親ゆり起こしたまう心地して夢破れたり。源叔父は頭をあげて、「我子よ今恐ろしき夢みたり・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・これから十二、一、二と先ず三月が炭の要る盛ですから倹約出来るだけ仕ないと大変ですよ。お徳が朝から晩まで炭が要る炭が高価いて泣言ばかり言うのも無理はありませんわ」「だって炭を倹約して風邪でも引ちゃ何もなりや仕ない」「まさかそんなことは・・・ 国木田独歩 「竹の木戸」
・・・だからこのごろときどき耳にする恋愛結婚より、見合結婚の方がましだなどと考えずに結婚に入る門はやはりどこまでも恋愛でなくてはならぬ。純な、一すじな、強い恋愛でなくてはならぬ。恋愛から入らずに結婚して、夫婦道の理想を立てようなどというのは、霊の・・・ 倉田百三 「愛の問題(夫婦愛)」
・・・仕事には非常の根気とエネルギーが要る。身体が丈夫ならば丈夫なだけいい。芸術上の仕事には種々な経験が豊かなほどいいのだが、身体が弱ければ生活が狭くなる。少なくともかなりな程度の健康を保つことを常に心掛けなくてはならない。それには、一、・・・ 倉田百三 「芸術上の心得」
・・・彼は、リザ・リーブスカヤのことを思い出して、どぎまぎして「胸膜炎で施療に来て居るからそれで知っとるんです。」「そう弁解しなくたって君、何も悪いとは云ってやしないよ。」 曹長は笑い出した。「そうですか。」 慌てゝはいけないと思・・・ 黒島伝治 「穴」
出典:青空文庫