・・・慎太郎には薄い博士の眉が、戸沢の処方を聞いた時、かすかに動いたのが気がかりだった。 しかしその話が一段落つくと、谷村博士は大様に、二三度独り頷いて見せた。「いや、よくわかりました。無論十二指腸の潰瘍です。が、ただいま拝見した所じゃ、・・・ 芥川竜之介 「お律と子等と」
・・・霜の上には薄い牛乳のような色の靄が青白く澱んでいた。私は早起きして表戸の野に新聞紙を拾いに出ると、東にあった二個の太陽を見出した。私は顔も洗わずに天文学に委しい教授の処に駈けつけた。教授も始めて実物を見るといって、私を二階窓に案内してくれた・・・ 有島武郎 「北海道に就いての印象」
・・・じつに彼らは、抑えても抑えても抑えきれぬ自己その者の圧迫に堪えかねて、彼らの入れられている箱の最も板の薄い処、もしくは空隙に向ってまったく盲目的に突進している。今日の小説や詩や歌のほとんどすべてが女郎買、淫売買、ないし野合、姦通の記録である・・・ 石川啄木 「時代閉塞の現状」
・・・ 確かに今乗った下らしいから、また葉を分けて……ちょうど二、三日前、激しく雨水の落とした後の、汀が崩れて、草の根のまだ白い泥土の欠目から、楔の弛んだ、洪水の引いた天井裏見るような、横木と橋板との暗い中を見たが何もおらぬ。……顔を倒にして・・・ 泉鏡花 「海の使者」
・・・額髪、眉のかかりは、紫の薄い袖頭巾にほのめいた、が、匂はさげ髪の背に余る。――紅地金襴のさげ帯して、紫の袖長く、衣紋に優しく引合わせたまえる、手かさねの両の袖口に、塗骨の扇つつましく持添えて、床板の朽目の青芒に、裳の紅うすく燃えつつ、すらす・・・ 泉鏡花 「貝の穴に河童の居る事」
・・・……雨水が渺々として田を浸すので、行く行く山の陰は陰惨として暗い。……処々巌蒼く、ぽっと薄紅く草が染まる。嬉しや日が当ると思えば、角ぐむ蘆に交り、生茂る根笹を分けて、さびしく石楠花が咲くのであった。 奥の道は、いよいよ深きにつけて、空は・・・ 泉鏡花 「七宝の柱」
・・・ 一つの乳牛に消化不良なのがあって、今井獣医の来たのは井戸ばたに夕日の影の薄いころであった。自分は今井とともに牛を見て、牧夫に投薬の方法など示した後、今井獣医が何か見せたい物があるからといわるるままに、今井の宅にうち連れてゆくことに・・・ 伊藤左千夫 「奈々子」
・・・シカモ文人として生活するには薄い待遇を忍んで新聞記者となるより外に道が無かった。今日の如く雑誌の寄書家となって原稿料にて生活する事は全く不可能であった。偶々二三の人が著述に成功して相当の産を作った例外の例があっても、斯ういう文壇の当り屋でも・・・ 内田魯庵 「二十五年間の文人の社会的地位の進歩」
・・・しかし世の中には子供に対して責任感の薄い母も多い。が、そういう者は例外として、真に子供の為めに尽した母に対してはその子供は永久にその愛を忘れる事が出来ない。そして、子供は生長して社会に立つようになっても、母から云い含められた教訓を思えば、如・・・ 小川未明 「愛に就ての問題」
梅雨の頃になると、村端の土手の上に、沢山のぐみがなりました。下の窪地には、雨水がたまって、それが、鏡のように澄んで、折から空を低く駆けて行く、雲の影を映していました。私達は、太い枝に飛びついて、ぶら下りながら赤く熟したのから、もぎとり・・・ 小川未明 「果物の幻想」
出典:青空文庫