・・・晴れきって明るくはあるが、どこか影の薄いような秋の日に甲羅を干しながら、ぼんやり河岸縁に蹲んでいる労働者もある。私と同じようにおおかた午の糧に屈托しているのだろう。船虫が石垣の間を出たり入ったりしている。 河岸倉の庇の下に屋台店が出てい・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・細面だが額は広く、鼻筋は通り、笑うと薄い唇の両端が窪み、耳の肉は透きとおるように薄かった。睫毛の長い眼は青味勝ちに澄んで底光り、無口な女であった。 高等学校の万年三年生の私は、一眼見て静子を純潔で知的な女だと思い込み、ランボオの詩集やニ・・・ 織田作之助 「世相」
・・・彼女は断髪をして薄い夏の洋装をしていた。しかしそれには少しもフレッシュなところがなかった。むしろ南京鼠の匂いでもしそうな汚いエキゾティシズムが感じられた。そしてそれはそのカフェがその近所に多く住んでいる下等な西洋人のよく出入りするという噂を・・・ 梶井基次郎 「ある崖上の感情」
・・・あきらめられそうでいてて、さて思い起こすごとにあきらめ得ない哀別のこころに沈むのはこの類の事です、そして私は「縁が薄い」という言葉の悲哀を、つくづく身に感じます。 ツイ近ごろのことです、私は校友会の席で、久しぶりで鷹見や上田に会いました・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・夏は、対岸から、踵の高い女の白靴や、桜色に光沢を放っている、すき通るような薄い絹の靴下や、竹の骨を割った日傘が、舟で内密で持ちこまれてくる。ここは、流れが最も緩慢であった。そして、対岸の河岸が、三十メートル突きだして、ゆるく曲線を描いている・・・ 黒島伝治 「国境」
・・・二羽の鵞鳥を。薄い平めな土坡の上に、雄の方は高く首を昂げてい、雌はその雄に向って寄って行こうとするところです。無論小さく、写生風に、鋳膚で十二分に味を見せて、そして、思いきり伸ばした頸を、伸ばしきった姿の見ゆるように随分細く」と話すのを・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・小柄な瘠せた男で、寒そうに薄い唇の色をかえていた。「第二無新」の同志らしかった。 俺は半年振りで見る「外」が楽しみでならなかった。護送自動車が刑務所の構内を出てから、編笠を脱ぎ、窓のカーテンを開けてもらった。――年の暮れが近く、街は騒々・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・勝手を知ったおげんは馴染も薄い患者ばかり居る大広間から抜け出して、ある特別な精神病者を一人置くような室の横手から、病院の広い庭の見える窓の方へ歩いて行って見た。立派な丸髷に結った何処かの細君らしい婦人で、新入の患者仲間を迎え顔におげんの方へ・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・そのうち天から暖かい黄金がみなのジャケツの上に降って来て、薄い羅紗の地質を通して素肌の上に焼け付くのである。男等は皆我慢の出来ないほどな好い心持になった。 この群のうちに一人の年若な、髪のブロンドな青年がいる。髭はない。頬の肉が落ちてい・・・ 著:シュミットボンウィルヘルム 訳:森鴎外 「鴉」
・・・あれは、お手本のあねさまの絵の上に、薄い紙を載せ、震えながら鉛筆で透き写しをしているような、全く滑稽な幼い遊戯であります。一つとして見るべきものがありません。雰囲気の醸成を企図する事は、やはり自涜であります。「チエホフ的に」などと少しでも意・・・ 太宰治 「風の便り」
出典:青空文庫