・・・ すると、りこうそうな、目のぱっちりした小田は、吉雄を慰めるように、「君、もう飲んでしまったらしかたがない。そして、いま時分は、お湯は、こんなに寒いんだもの、水になっているよ。帰ってもしかたがないだろう。」といいました。 吉雄は・・・ 小川未明 「ある日の先生と子供」
・・・食らう時かたわらよりうまきやと問えばアクセントなき言葉にてうましと答うその声は地の底にて響くがごとし。戯れに棒振りあげて彼の頭上に翳せば、笑うごとき面持してゆるやかに歩みを運ぶ様は主人に叱られし犬の尾振りつつ逃ぐるに似て異なり、彼はけっして・・・ 国木田独歩 「源おじ」
・・・それは春先する、おもしろそうな、笑うようなさざめきでもなく、夏のゆるやかなそよぎでもなく、永たらしい話し声でもなく、また末の秋のおどおどした、うそさぶそうなお饒舌りでもなかったが、ただようやく聞取れるか聞取れぬほどのしめやかな私語の声であっ・・・ 国木田独歩 「武蔵野」
・・・「オイ、栗島。」軍医と何か打合せをしていた伍長が、扉のすきから獰猛な顔を出して、兵舎の彼に呼びかけた。「君は本当に偽物だとは知らずに使ったんかね?」「そうです。」彼は答えた。「うそを云っちゃいかんぞ!」「うそじゃありませ・・・ 黒島伝治 「穴」
・・・「いや、うそだうそだ。今さっきほかの者が来てすっかり持って行っちゃったんだ。」 松木はうしろから叫んだ。「いいえ、いらないわ。」 彼女の細長い二本の脚は、強いばねのように勢いよくはねながら、丘を登った。「ガーリヤ! 待て・・・ 黒島伝治 「渦巻ける烏の群」
・・・真実はおもてに現われて、うそや飾りで無いことは、其の止途無い涙に知れ、そして此の紛れ込者を何様して捌こうか、と一生懸命真剣になって、男の顔を伺った。目鼻立のパラリとした人並以上の器量、純粋の心を未だ世に濁されぬ忠義一図の立派な若い女であった・・・ 幸田露伴 「雪たたき」
・・・決してうそはつかない。もし、万一、あの人のかえりがおくれたとしたら、それは、彼のわるいせいではなく、やむをえない不意の出来ごとが妨げをしたのである。そのときには私はよろこんであの人の代りに殺されて見せる。」 デイモンはこう言って落ちつき・・・ 鈴木三重吉 「デイモンとピシアス」
・・・しかし、けっしてうそではありません。 そのころ或国の王さまに、美しい王女がありました。その王女を世界中の王さまや王子が、だれもかれもお嫁にほしがって、入りかわりもらいに来ました。 しかし王女は、どんなりっぱな人のところから話があって・・・ 鈴木三重吉 「ぶくぶく長々火の目小僧」
・・・もっとも、もうその頃は、私どもの店も、毎日おもての戸は閉めっきりで、その頃のはやり言葉で言うと閉店開業というやつで、ほんの少数の馴染客だけ、勝手口からこっそりはいり、そうしてお店の土間の椅子席でお酒を飲むという事は無く、奥の六畳間で電気を暗・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・世界中の学者もこれには、めんくらった。うそだろう、シーボルトという奴は、もとから、ほら吹きであった、などと分別臭い顔をして打ち消す学者もございましたが、どうも、そのニッポンの大サンショウウオの骨格が、欧羅巴で発見せられた化石とそっくりだとい・・・ 太宰治 「黄村先生言行録」
出典:青空文庫