・・・露が光るように、針の尖を伝って、薄い胸から紅い糸が揺れて染まって、また縢って、銀の糸がきらきらと、何枚か、幾つの蜻蛉が、すいすいと浮いて写る。――(私が傍って、鼻ひしゃげのその頃の工女が、茄子の古漬のような口を開けて、老い年で話すんです。そ・・・ 泉鏡花 「縷紅新草」
・・・時の移るも知らずに興じつつ波に追われたり波を追ったりして、各小袋に蛤は満ちた。よろこび勇んで四人はとある漁船のかげに一休みしたのであるが、思わぬ空の変わりようにてにわかに雨となった。四人は蝙蝠傘二本をよすがに船底に小さくなってしばらく雨やど・・・ 伊藤左千夫 「紅黄録」
・・・木の葉の形も小鳥の形もはっきり映るようになると、きわめて落ちついた静かな趣になる。 省作はそのおもしろい光景にわれを忘れて見とれている。鎌をとぐ手はただ器械的に動いてるらしい。おはまは真に苦も荷もない声で小唄をうたいつつ台所に働いている・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・これからどうしてもおとよの話に移る順序であれど、日影はいつしかえん側をかぎって、表の障子をがたぴちさせいっさんに奥へ二人の子供が飛びこんできた。「おばあさんただいま」「おばあさんただいま」 顔も手も墨だらけな、八つと七つとの重蔵・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・て改った挨拶などする、十になる児の母だけれど、町公町公と云ったのもまだつい此間の事のようで、其大人ぶった挨拶が可笑しい位だった、其内利助も朝草を山程刈って帰ってきた、さっぱりとした麻の葉の座蒲団を影の映るような、カラ縁に敷いて、えい心持った・・・ 伊藤左千夫 「姪子」
・・・そこでしくじったら、また、もう少しかけ隔った別な店へ移るのだろう。はたから見ると、だんだん退却して行くありさまだ。吉弥の話したことによると、青木は、かれ自身が、「無学な上に年を取っているから、若いものに馬鹿にされたり、また、自分が一生懸・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・侍女たちが手に手を取って投げる金銀の輝きと、お姫さまの赤い着物とが、さながら雲の舞うような、夕日に映る光景は、やはり陸の人々の目に見られたのです。「お姫さまの船が、海の中に沈んでしまったのだろうか。」と、陸では、みんなが騒ぎはじめました・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・水ぎわには昼でも淡く水蒸気が見えるが、そのくせ向河岸の屋根でも壁でも濃くはっきりと目に映る。どうしてももう秋も末だ、冬空に近い。私は袷の襟を堅く合せた。「ねえ君、二三日待ちなせえよ。きっと送るから。」と船に乗り移る間ぎわにも、銭占屋はそ・・・ 小栗風葉 「世間師」
・・・寺田は何か後味が悪く、やがて競馬が小倉に移ると、1の番号をもう一度追いたい気持にかられて九州へ発った。汽車の中で小倉の宿は満員らしいと聴いたので、別府の温泉宿に泊り、そこから毎朝一番の汽車で小倉通いをすることにした。夜、宿へつくとくたくたに・・・ 織田作之助 「競馬」
・・・例えば、彼はそのアパートを移るという簡単なことの弾みが容易につかなかったらしい。そしてそれが何よりいけなかったのだ。そのアパートの不健康さについては前に述べたが、殊に彼の部屋ときてはお話にならぬくらいひどかった。 実際私は訪れるたびに呆・・・ 織田作之助 「道」
出典:青空文庫