・・・ところがさらに意外な事には、祥光院の檀家たる恩地小左衛門のかかり人が、月に二度の命日には必ず回向に来ると云う答があった。「今日も早くに見えました。」――所化は何も気がつかないように、こんな事までもつけ加えた。喜三郎は寺の門を出ながら、加納親・・・ 芥川竜之介 「或敵打の話」
・・・保吉は死を考える度に、ある日回向院の境内に見かけた二匹の犬を思い出した。あの犬は入り日の光の中に反対の方角へ顔を向けたまま、一匹のようにじっとしていた。のみならず妙に厳粛だった。死と云うものもあの二匹の犬と何か似た所を持っているのかも知れな・・・ 芥川竜之介 「少年」
・・・幼稚園は名高い回向院の隣の江東小学校の附属である。この幼稚園の庭の隅には大きい銀杏が一本あった。僕はいつもその落葉を拾い、本の中に挾んだのを覚えている。それからまたある円顔の女生徒が好きになったのも覚えている。ただいかにも不思議なのは今にな・・・ 芥川竜之介 「追憶」
・・・ほどなく泰さんに別れると、すぐ新蔵が取って返したのは、回向院前の坊主軍鶏で、あたりが暗くなるのを待ちながら、銚子も二三本空にしました。そうして日がとっぷり暮れると同時に、またそこを飛び出して、酒臭い息を吐きながら、夏外套の袖を後へ刎ねて、押・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・ 慌てた孫に、従容として見向いて、珠数を片手に、「あのう、今しがた私が夢にの、美しい女の人がござっての、回向を頼むと言わしった故にの、……悉しい事は明日話そう。南無妙法蓮華経。……広供養舎利 咸皆懐恋慕 而生渇仰心 衆生既信伏 質直・・・ 泉鏡花 「第二菎蒻本」
・・・ やがて、読誦の声を留めて、「お志の御回向はの。」「一同にどうぞ。」「先祖代々の諸精霊……願以此功徳無量壇波羅蜜。具足円満、平等利益――南無妙……此経難持、若暫持、我即歓喜……一切天人皆応供養。――」 チーン。「あり・・・ 泉鏡花 「夫人利生記」
・・・ そこで、小鳥の回向料を包んだのさ。 十時四十分頃、二つさきの山の中の停車場へ下りた。が、別れしなに、袂から名札を出して、寄越そうとして、また目を光らして引込めてしまった。 ――小鳥は比羅のようなものに包んでくれた。比羅は裂いて・・・ 泉鏡花 「古狢」
・・・金屏風とむきあった、客の脱すてを掛けた衣桁の下に、何をしていたか、つぐんでいて、道陸神のような影を、ふらふらと動かして、ぬいと出たものがあった。あれと言った小春と、ぎょっとした教授に「北国一。」と浴せ掛けて、またたく間に廊下をすっ飛んで行っ・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・家族はことごとく自分の二階へ引取ってくれ、牛は回向院の庭に置くことを諾された。天候情なくこの日また雨となった。舟で高架鉄道の土堤へ漕ぎつけ、高架線の橋上を両国に出ようというのである。われに等しき避難者は、男女老幼、雨具も無きが多く、陸続とし・・・ 伊藤左千夫 「水害雑録」
・・・今度頸を法華経に奉って、その功徳を父母に回向し、其の余をば弟子檀那等にはぶくべし」といった、また左衛ノ尉の悲嘆に乱れるのを叱って、「不覚の殿原かな。是程の喜びをば笑えかし。……各々思い切り給え。此身を法華経にかうるは石にこがねをかえ・・・ 倉田百三 「学生と先哲」
出典:青空文庫