・・・よ、友達甲斐に離してくれ給えったら。」「君はお敏さんの事を忘れたのか。君がそんな無謀な事をしたら、あの人はどうするんだ。」――二人がこう揉み合っている間に、新蔵は優しい二つの腕が、わなわな震えながらも力強く、首のまわりに懸ったのを感じました・・・ 芥川竜之介 「妖婆」
・・・二の腕に颯と飜えって、雪なす小手を翳しながら、黒煙の下になり行く汽車を遥に見送った。 百合若の矢のあとも、そのかがみよ、と見返る窓に、私は急に胸迫ってなぜか思わず落涙した。 つかつかと進んで、驚いた技手の手を取って握手したのである。・・・ 泉鏡花 「革鞄の怪」
・・・睨むように顔を視めながら、「高いがな高いがな――三銭や、えっと気張って。……三銭が相当や。」「まあ、」「三銭にさっせえよ。――お前もな、青草ものの商売や。お客から祝儀とか貰うようには行かんぞな。」「でも、」 と蕈が映す影・・・ 泉鏡花 「小春の狐」
・・・「ええ、家ではかえって人目に立つッて、あの、おほほ、心中の相談をしに来た処だものですから、あはははは。」 ひたと胸に、顔をうずめて、泣きながら、「おほほほほほほ。」 五「旦那さん、そんなら、あの、私、・・・ 泉鏡花 「みさごの鮨」
・・・いま、忘れていた記憶がすっかり甦えってきた。これから、もっと、もっと、北へさしてゆくと私のいった理想の土地へ出られるのだ。しかし、私の力は、もうそこまでゆくことができない。どうか私をここに残してみんなは、早く旅を急いだがいい。」と、年とった・・・ 小川未明 「がん」
・・・「しかし、汚ないという評判だぜ。目下の者におごらせたりしたのじゃないかな」「えっ」 解せぬという顔だったが、やがて、あ、そうかと想い出して、「――いや、その積りはなかったんだが、はいってた筈の財布にうっかりはいっていなかった・・・ 織田作之助 「鬼」
・・・「そない言ったら、そやなア」「しかし、何だか脱走はいやだなア。卑怯だよ、第一……」「ほな、撲られに帰るいうのやなア」「いや」 と、白崎は急に眼を光らせて、「撲りに帰る」「えっ、誰をや」「蓄音機さ」 白崎は・・・ 織田作之助 「昨日・今日・明日」
・・・踊子の太った足も、場末の閑散な冬のレヴュ小屋で見れば、赤く寒肌立って、かえって見ている方が悲しくうらぶれてしまう。興冷めた顔で洟をかんでいると、家人が寝巻の上に羽織をひっかけて、上って来た。砂糖代りのズルチンを入れた紅茶を持って来たのである・・・ 織田作之助 「世相」
・・・焼跡の寂しい道で、人通りは殆どなかったが、かえってもっけの幸いだった。 娘ははだしで歩きにくかったので、急いだつもりだが、阿倍野橋まで一時間も掛った。 阿倍野の闇市のバラックに、一、二軒おそくまで灯りをつけている店があった。 立・・・ 織田作之助 「夜光虫」
・・・もしそのとき形骸に感覚が蘇えってくれば、魂はそれと共に元へ帰ったのであります。哀れなるかな、イカルスが幾人も来ては落っこちる。 K君はそれを墜落と呼んでいました。もし今度も墜落であったなら、泳ぎのできるK君です。溺れることは・・・ 梶井基次郎 「Kの昇天」
出典:青空文庫