・・・ 大工は名を藤吉と申しましたが、やはり江戸の職人という気風がどこまでもついて廻わり、様子がいなせで弁舌が爽やかで至極面白い男でございました。ただ容貌はあまり立派ではございません、鼻の丸い額の狭いなどはことに目につきました。笑う時はどこか・・・ 国木田独歩 「女難」
・・・「此頃は江戸菊が大変よく咲ているのよ、江戸菊を持て来ましょうねエ。」とお富は首をちょっと傾げてニコリと笑って。「貴姉の処に鈴虫が居て?」「否エ、どうして?」「梅ちゃんの鈴虫が此頃大変鳴かないようになって、何だか死にそうですか・・・ 国木田独歩 「二少女」
明治三十一年十二月十二日、香川県小豆郡苗羽村に生れた。父を兼吉、母をキクという。今なお健在している。家は、半農半漁で生活をたてゝいた。祖父は、江戸通いの船乗りであった。幼時、主として祖母に育てられた。祖母に方々へつれて行っ・・・ 黒島伝治 「自伝」
・・・それも製作技術の智慧からではあるが、丸太を組み、割竹を編み、紙を貼り、色を傅けて、インチキ大仏のその眼の孔から安房上総まで見ゆるほどなのを江戸に作ったことがある。そういう質の智慧のある人であるから、今ここにおいて行詰まるような意気地無しでは・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
・・・徳川期もまだひどく末にならない時分の事でございます。江戸は本所の方に住んでおられました人で――本所という処は余り位置の高くない武士どもが多くいた処で、よく本所の小ッ旗本などと江戸の諺で申した位で、千石とまではならないような何百石というような・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・へ特筆大書すべき始末となりしに俊雄もいささか辟易したるが弱きを扶けて強きを挫くと江戸で逢ったる長兵衛殿を応用しおれはおれだと小春お夏を跳ね飛ばし泣けるなら泣けと悪ッぽく出たのが直打となりそれまで拝見すれば女冥加と手の内見えたの格をもってむず・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・ 焼けない前の小竹の奥座敷を思出しながら今の部屋を見ると、江戸好みの涼しそうな団扇一本お三輪の眼には見当らなかった。あれも焼いてしまった、これも焼いてしまったと、惜しい着物のことなぞがつぎつぎにお三輪の胸に浮んで来る。彼女はまたよくそれ・・・ 島崎藤村 「食堂」
・・・いや、きざに江戸っ子ぶって、こんな事を言うのじゃないのです。僕だって津軽で生れて津軽で育った田舎者です。津軽なまりを連発して、東京では皆に笑われてばかりいるのです。けれども十年、故郷を離れて、突然、純粋の津軽言葉に接したところが、わからない・・・ 太宰治 「帰去来」
・・・外のものは兎に角と致して日本一お江戸の名物と唐天竺まで名の響いた錦絵まで御差止めに成るなぞは、折角天下太平のお祝いを申しに出て来た鳳凰の頸をしめて毛をむしり取るようなものじゃ御座いますまいか。」 という一文がありました。これは、「散柳窓・・・ 太宰治 「三月三十日」
・・・こういう絵を見るよりも私はうちで複製の広重か江戸名所の絵でも一枚一枚見ている方が遥かに面白く気持が好いのである。 洋画の方へ行くと少し心持がちがう。ちょっと悪夢からさめたような感じもする。尤この頃自分で油絵のようなものをかいているものだ・・・ 寺田寅彦 「ある日の経験」
出典:青空文庫