・・・お正月も過ぎてしまえば、たのしみとして待ったほどのことはなく、あまりにあツけなく過ぎて結局又一ツ年を取って老いて行くのだが、それでもなにか期待の持てる張りあいのある気持で、藁をそぐってかざりを組み、山へ登って、松を伐ってくる。七日には、なな・・・ 黒島伝治 「四季とその折々」
・・・そういう質の智慧のある人であるから、今ここにおいて行詰まるような意気地無しではなかった。先輩として助言した。「君、なるほど火の芸術は厄介だ。しかしここに道はある。どうです、鵞鳥だからむずかしいので。蟾蜍と改題してはどんなものでしょう。昔・・・ 幸田露伴 「鵞鳥」
こう暑くなっては皆さん方があるいは高い山に行かれたり、あるいは涼しい海辺に行かれたりしまして、そうしてこの悩ましい日を充実した生活の一部分として送ろうとなさるのも御尤もです。が、もう老い朽ちてしまえば山へも行かれず、海へも出られないで・・・ 幸田露伴 「幻談」
・・・なかでも、わたくしの老いたる母は、どんなに絶望の刃に胸をつらぬかれたであろう。 されど、今のわたくし自身にとっては、死刑はなんでもないのである。 わたくしが、いかにしてかかる重罪をおかしたのであるか。その公判すら傍聴を禁止された今日・・・ 幸徳秋水 「死刑の前」
・・・だから、自分でキチン/\と綺麗にしておいた方がいゝよ。そしたら却々愛着が出るもんだ。」 それから、看守の方をチラッと見て、「ヘン、しゃれたもんだ、この不景気にアパアト住いだなんて!」 と云って、出て行った。 長い・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・それから二度三度と馴染めば馴染むほど小春がなつかしく魂いいつとなく叛旗を翻えしみかえる限りあれも小春これも小春兄さまと呼ぶ妹の声までがあなたやとすこし甘たれたる小春の声と疑われ今は同伴の男をこちらからおいでおいでと新田足利勧請文を向けるほど・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・いい家があったら、とうさんは見においで。」 次郎は次郎でこんなふうに引き受け顔に言って、画作の暇さえあれば一人でも借家をさがしに出かけた。 今さらのように、私は住み慣れた家の周囲を見回した。ここはいちばん近いポストへちょっとはがきを・・・ 島崎藤村 「嵐」
・・・その力を籠めた言葉には年老いた母親を思うあわれさがあった。「昨日は俺も見ていた。そうしたら、おばあさんがここのお医者さまに叱られているのさ」 この三吉の子供らしい調子はお新をも婆やをも笑わせた。「三吉や、その話はもうしないでおく・・・ 島崎藤村 「ある女の生涯」
・・・ じいさんは別れるときに、ポケットから小さな、さびた鍵を一つ取り出して、「これをウイリイさんが十四になるまで、しまっておいてお上げなさい。十四になったら、私がいいものをお祝いに上げます。それへこの鍵がちゃんとはまるのですから。」と言・・・ 鈴木三重吉 「黄金鳥」
・・・この袂の中に、十七八の藤さんと二十ばかりの自分とが、いつまでも老いずに封じてあるのだと思う。藤さんは現在どこでどうしていてもかまわぬ。自分の藤さんは袂の中の藤さんである。藤さんはいつでもありありとこの中に見ることができる。 千鳥千鳥とよ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫