・・・「ここへ置きますよ」 配達夫の立ち去った後で、お光はようやく店に出て、框際の端書を拾って茶の間へ帰ったが、見ると自分の名宛で、差出人はかのお仙ちゃんなるその娘の母親。文言は例のお話の縁談について、明日ちょっとお伺いしたいが、お差支え・・・ 小栗風葉 「深川女房」
・・・を二回も筆写し、真冬に午前四時に起き、素足で火鉢もない部屋で小説を書くということであり、このような斎戒沐浴的文学修業は人を感激させるものだが、しかし、「暗夜行路」を筆写したり暗記したりする勉強の仕方は、何だかみそぎを想わせるような古い方法で・・・ 織田作之助 「大阪の可能性」
・・・ 帰り途、二つ井戸下大和橋東詰で三色ういろと、その向いの蒲鉾屋で、晩のお菜の三杯酢にする半助とはんぺんを買って、下寺町のわが家に戻ると、早速亭主の下帯へこっそりいもりの一匹を縫いこんで置き、自分もまた他の一匹を身に帯びた。 ちかごろ・・・ 織田作之助 「大阪発見」
・・・一思に死だと思わせて置きたいな。そうでもない偶然おれが三日も四日も藻掻ていたと知れたら…… 眼が眩う。隣歩きで全然力が脱けた。それにこの恐ろしい臭気は! 随分と土気色になったなア! ……これで明日明後日となったら――ええ思遣られる。今だ・・・ 著:ガールシンフセヴォロド・ミハイロヴィチ 訳:二葉亭四迷 「四日間」
・・・毎日午後の三四時ごろに起きては十二時近くまで寝床の中で酒を飲む。その酒を飲んでいる間だけが痛苦が忘れられたが、暁方目がさめると、ひとりでに呻き声が出ていた。装飾品といって何一つない部屋の、昼もつけ放しの電灯のみが、侘しく眺められた。・・・ 葛西善蔵 「死児を産む」
・・・耕吉もこれに励まされて、そのまた翌日、子のない弟夫婦が手許に置きたがった耕太郎を伴れて、郷里へ発ったのであった。三 往来に雪解けの水蒸気の立つ暖かい日の午後、耕吉、老父、耕太郎、久助爺との四人が、久助爺の村に耕吉には恰好の空・・・ 葛西善蔵 「贋物」
一 喬は彼の部屋の窓から寝静まった通りに凝視っていた。起きている窓はなく、深夜の静けさは暈となって街燈のぐるりに集まっていた。固い音が時どきするのは突き当っていく黄金虫の音でもあるらしかった。 そこは入・・・ 梶井基次郎 「ある心の風景」
・・・ どこまでもその歓心を買わんとて、辰弥は好んであどけなき方に身を置きぬ。たわいもなき浮世咄より、面白き流行のことに移り、芝居に飛び音楽に行きて、ある限りさまざまに心を尽しぬ。光代はただ受答えの返事ばかり、進んで口を開かんともせず。 ・・・ 川上眉山 「書記官」
・・・ 私が鸚鵡を持って来たので、ねそべっていた政法の二人ははね起きました、「どうした」と鷹見は鸚鵡のかごと私の顔を見比べて、しかも笑いながら、聞きますから、「どうしたって、どうした」「樋口の部屋におッ母さんがいたろう」「いたよ」・・・ 国木田独歩 「あの時分」
・・・るまで幸衛門を初めお絹お常らの身に異変なく来年の夏またあの置座にて夕涼しく団居する中にわれをも加えたまえと祈り終わりてしばしは頭を得上げざりしが、ふと気が付いて懐を探り紙包みのまま櫛二枚を賽銭箱の上に置き、他の人が早く来て拾えばその人にやる・・・ 国木田独歩 「置土産」
出典:青空文庫