・・・この柵草紙の盛時が、即ち鴎外という名の、毀誉褒貶の旋風に翻弄せられて、予に実に副わざる偽の幸福を贈り、予に学界官途の不信任を与えた時である。その頃露伴が予に謂うには、君は好んで人と議論を闘わして、ほとんど百戦百勝という有様であるが、善く泅ぐ・・・ 森鴎外 「鴎外漁史とは誰ぞ」
・・・殿は申に及ばず、その頃の御当主妙解院殿よりも出格の御引立を蒙り、寛永九年御国替の砌には、松向寺殿の御居城八代に相詰め候事と相成り、あまつさえ殿御上京の御供にさえ召具せられ、繁務に逐われ、空しく月日を相送り候。その内寛永十四年嶋原征伐と相成り・・・ 森鴎外 「興津弥五右衛門の遺書(初稿)」
・・・を以て御紋附麻上下被下置」と云う沙汰があった。本多は九郎右衛門に百石遣って、用人の上席にした。りよへも本多から「反物代千疋」を贈り、本多の母から「縞縮緬一反、交肴一折」を贈った。 文吉は酒井家の目附役所に呼び出されて、元表小使、山本九郎・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・竹藪を廻ると急に彼は駈け出したが、結局このままでは自分から折れない限り、二人の間でいつまでも安次を送り合わねばならぬと考えついた時には、もう彼の足は鈍っていた。そして今逆に先手を打って、安次を秋三から心良く寛大に引き取ってやったとしたならば・・・ 横光利一 「南北」
・・・徳蔵おじはモウ年が寄って、故郷を離れる事が出来ないので、七年という実に面白い気楽な生涯をそこで送り、極おだやかに往生を遂る時に、僕をよんで、これからは兼て望の通り、船乗りになっても好といいました。僕は望が叶たんだから、嬉しいことは嬉しいけれ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・そのひとり子をこの世に送り、彼を死よりよみがえらせて明らかな証を我々に示したこの大いなる神を信じないか。云々。 ――このパウロの熱心は、とにかく千数百年の後まで権威を持ち続けた。たとえ偶像礼拝の傾向が聖母崇拝や使徒崇拝などの形で生き残っ・・・ 和辻哲郎 「『偶像再興』序言」
出典:青空文庫