・・・対話の末に、今日の四時何十分とかに出発する人々に贈るのだということがわかってからやっと針が動き始めて間もなく出来上がった。その前にそこの給仕の少女等にも縫ってもらったのだと見えて、これにも礼を云ってさっさと出て行った。若旦那が、僕は御役に立・・・ 寺田寅彦 「千人針」
・・・……T氏と艙へはいって、カバンを出してもらって、ハース氏に贈るべき品物を選み出したりした。五月一日 午後にはもうイタリアの山が見えた。いよいよヨーロッパへ来たのかと思った。夕食時にはメッシナ海峡の入り口へかかった。左にエトナが見える・・・ 寺田寅彦 「旅日記から(明治四十二年)」
・・・誰に贈るあてもないが一枚を五十銭で買った。水菓子屋の目さめるような店先で立止って足許の甘藍を摘んでみたりしていたが、とうとう蜜柑を四つばかり買って外套の隠しを膨らませた。眼鏡屋の店先へ来ると覘き眼鏡があって婆さんが一人覘いている。此方のレン・・・ 寺田寅彦 「まじょりか皿」
・・・田舎から出て来た自分の母は「東京の人に物を贈ると、まるで狐を打つように返して来るよ」といって驚いた。これに関する例のP君の説はやはり変わっている。「切手は好意の代表物である。しかしその好意というのは、かなり多くの場合に、自己の虚栄心を満足す・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・「あれが漁場漁場へ寄って、魚を集めて阪神へ送るのです」桂三郎はそんな話をした。 やがて女中が高盃に菓子を盛って運んできた。私たちは長閑な海を眺めながら、絵葉書などを書いた。 するうち料理が運ばれた。「へえ、こんなところで天麩・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・死減一等の連中を地方監獄に送る途中警護の仰山さ、始終短銃を囚徒の頭に差つけるなぞ、――その恐がりようもあまりひどいではないか。幸徳らはさぞ笑っているであろう。何十万の陸軍、何万トンの海軍、幾万の警察力を擁する堂々たる明治政府を以てして、数う・・・ 徳冨蘆花 「謀叛論(草稿)」
・・・観客から贔屓の芸人に贈る薬玉や花環をつくる造花師が入谷に住んでいた。この人も三月九日の夜に死んだ。初め女房や娘と共に大通りへ逃げたが家の焼けるまでにはまだ間があろうと、取残した荷物を一ツなりとも多く持出そうと立戻ったなり返って来なかったとい・・・ 永井荷風 「草紅葉」
・・・もしこの事がなかったなら、わたくしは今日のように、老に至るまで閑文字を弄ぶが如き遊惰の身とはならず、一家の主人ともなり親ともなって、人間並の一生涯を送ることができたのかも知れない。 わたくしが十六の年の暮、といえば、丁度日清戦役の最中で・・・ 永井荷風 「十六、七のころ」
・・・白い鳩は基督教の信徒には意義があるかも知れないが、然らざるものの葬儀にこれを贈るのは何のためであろう。 元来わたくしの身には遵奉すべき宗旨がなかった。西洋人をして言わしめたら、無神論者とか、リーブル・パンサウールとか称するものであろう。・・・ 永井荷風 「西瓜」
・・・画に似たる少女の、舟に乗りて他界へ行くを、立ちならんで送るのでもあろう。 舟はカメロットの水門に横付けに流れて、はたと留まる。白鳥の影は波に沈んで、岸高く峙てる楼閣の黒く水に映るのが物凄い。水門は左右に開けて、石階の上にはアーサーとギニ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
出典:青空文庫