・・・のみならず直孝を呼び寄せると、彼の耳へ口をつけるようにし、「その女の素姓だけは検べておけよ」と小声に彼に命令した。 三 家康の実検をすました話はもちろん井伊の陣屋にも伝わって来ずにはいなかった。古千屋はこの話を・・・ 芥川竜之介 「古千屋」
・・・「年をとったって、隅へはおけませんや。」小川の旦那もこう云いながら、細目にあいている障子の内を、及び腰にそっと覗きこんだ。二人とも、空想には白粉のにおいがうかんでいたのである。 部屋の中には、電燈が影も落さないばかりに、ぼんやりとも・・・ 芥川竜之介 「老年」
・・・どうしてもお前達を子守に任せておけないで、毎晩お前たち三人を自分の枕許や、左右に臥らして、夜通し一人を寝かしつけたり、一人に牛乳を温めてあてがったり、一人に小用をさせたりして、碌々熟睡する暇もなく愛の限りを尽したお前たちの母上が、四十一度と・・・ 有島武郎 「小さき者へ」
・・・戸部 いいから……こいつら、うっちゃっておけ。戸部ひとりだけ、とも子をモデルにして描きはじめる。その間に次の会話が行なわれる。花田 全くともちゃんに帰られちゃ困るよ。青島、貴様よけいなことをいうからいかんよ。……とに・・・ 有島武郎 「ドモ又の死」
・・・ こんの兄哥もそういうし、乗組んだ理右衛門徒えも、姉さんには内証にしておけ、話すと恐怖がるッていうからよ。」「だから、皆で秘すんだから、せめて三ちゃんが聞かせてくれたって可じゃないかね。」「むむ、じゃ話すだがね、おらが饒舌ったっ・・・ 泉鏡花 「海異記」
・・・はて、見ていれば綺麗なものを、仇花なりとも美しく咲かしておけば可い事よ。三の烏 なぞとな、お二めが、体の可い事を吐す癖に、朝烏の、朝桜、朝露の、朝風で、朝飯を急ぐ和郎だ。何だ、仇花なりとも、美しく咲かしておけば可い事だ。からからからと笑・・・ 泉鏡花 「紅玉」
・・・ そりゃ境遇が違えば、したがって心持ちも違うのが当然じゃと、無造作に解決しておけばそれまでであるけれど、僕らはそれをいま少し深く考えてみたいのだ。いちじるしき境遇の相違は、とうていくまなくあい解することはできないにしても、なるべくは解し・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・とくと考えておけ」 兄は見かけによらず解った人であった。まだ若年な省作が、世間的に失敗した今の境遇を、兄は深く憐んだのである。省作の精神を大抵推知しながら先を越して弟に元気をつけたのである。省作は腹の中で、しみじみ兄の好意を謝した。省作・・・ 伊藤左千夫 「春の潮」
・・・其後又、今度は貸金までして仕度をして何にも商ばいをしない家にやるとここも人手が少なくてものがたいのでいやがって名残をおしがる男を見すてて恥も外聞もかまわないで家にかえると親の因果でそれなりにもしておけないので三所も四所も出て長持のはげたのを・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・「済まないこッてございますけれど――吉弥が悪いのだ、向うをおこらさないで、そッとしておけばいいのに」「向うからほじくり出すのだから、しようがない、わ」「もう、出来たことは何と言っても取り返しのつくはずがない。すッかり私におまかせ・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
出典:青空文庫