・・・女の人は少し頭痛がしたので奥で寝んでいたところ、お長が裏口へ廻って、障子を叩いて起してくれたのだと言う。「もう何ともございません」と伏し目になる。起きて着物をちゃんとして出てきたものらしい。ややあって、「あなたはこの節は少しはおよろ・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
・・・ 私は上半身を起して、「窓から小便してもいいかね。」 と言った。「かまいませんわ。そのほうが簡単でいいわ。」「キクちゃんも、時々やるんじゃねえか。」 私は立上って、電燈のスイッチをひねった。つかない。「停電ですの・・・ 太宰治 「朝」
・・・公をはじめまして、まあ人並に浮き沈みの苦労をして、すこし蓄えも出来ましたので、いまのあの中野の駅ちかくに、昭和十一年でしたか、六畳一間に狭い土間附きのまことにむさくるしい小さい家を借りまして、一度の遊興費が、せいぜい一円か二円の客を相手の、・・・ 太宰治 「ヴィヨンの妻」
・・・「僕がしましょう。」興奮の余りに、上わ調子になった声で、チルナウエルが叫んだ。「その日数だけ休暇が貰えるかね。半年は掛かるよ。」中尉はこう云って、小さい銀行員を、頭から足まで見卸した。「ええ。僕がいないと、銀行で差支えるのですが・・・ 著:ダビットヤーコプ・ユリウス 訳:森鴎外 「世界漫遊」
・・・ かれは苦しい身を起こした。 「どうしてこの車に乗った?」 理由を説明するのがつらかった。いや口をきくのも厭なのだ。 「この車に乗っちゃいかん。そうでなくってさえ、荷が重すぎるんだ。お前は十八聯隊だナ。豊橋だナ」 うなず・・・ 田山花袋 「一兵卒」
・・・豌豆、午蒡の樹になったものに、丸い棘のある実が生って居るのを、前に歩いて行った友に、人知れず採って打付けて遣ったり何かすると、友は振返って、それと知って、負けぬ気になって、暫く互に打付けこをするのも一興である。路はやがて穉樹の林に入って、う・・・ 田山花袋 「新茶のかおり」
・・・この方法はとかくいろいろな失策や困難をひき起こしやすい。またいわゆる名所旧跡などのすぐ前を通りながら知らずに見のがしてしまったりするのは有りがちな事である。これは危険の多いヘテロドックスのやり方である。これはうっかり一般の人にすすめる事ので・・・ 寺田寅彦 「案内者」
幼少のころ、高知の城下から東に五六里離れた親類の何かの饗宴に招かれ、泊まりがけの訪問に出かけたことが幾度かある。饗宴の興を添えるために来客のだれかれがいろいろの芸尽くしをやった中に、最もわれわれ子供らの興味を引いたものは、・・・ 寺田寅彦 「映画時代」
・・・ 話題が少し切迫してきたので、二人は深い触れ合いを避けでもするように、ふと身を起こした。「海岸へ出てみましょうか」桂三郎は言った。「そうだね」私は応えた。 ひろびろとした道路が、そこにも開けていた。「ここはこの間釣りに来・・・ 徳田秋声 「蒼白い月」
・・・を独自に起した、地方には珍らしい人物であった。三吉は彼にクロポトキンを教えられ、ロシア文学もフランス文学も教えられた。土地の新聞の文芸欄を舞台にして、彼の独特な文章は、熊本の歌つくりやトルストイアンどもをふるえあがらせた。五尺たらずで、胃病・・・ 徳永直 「白い道」
出典:青空文庫