・・・予はまさかに怒る訳にもゆかない、食わぬということも出来かねた。 予が食事の済んだ頃岡村はやってきた。岡村の顔を見れば、それほど憎らしい顔もして居らぬ。心あって人を疎ましくした様な風はして居らぬ。予は全く自分のひがみかとも迷う。岡村が平気・・・ 伊藤左千夫 「浜菊」
・・・定正がアッチへ逃げたりコッチへ逃げたりするのも曹操が周瑜に追われては孔明の智なきを笑うたびに伏兵が起る如き巧妙な作才が無い。軍記物語の作者としての馬琴は到底『三国志』の著者の沓の紐を解くの力もない。とはいうものの『八犬伝』の舞台をして規模雄・・・ 内田魯庵 「八犬伝談余」
・・・ゆえにもしわれわれが文学者となることができず、またなる考えもなし、バンヤンのような思想を持っておっても、バンヤンのように綴ることができないときには、別に後世への遺物はないかという問題が起る。それは私にもたびたび起った問題であります。なるほど・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・国の興ると亡ぶるとはこのときに定まるのであります。どんな国にもときには暗黒が臨みます。そのとき、これに打ち勝つことのできる民が、その民が永久に栄ゆるのであります。あたかも疾病の襲うところとなりて人の健康がわかると同然であります。平常のときに・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ さよ子は、よい音色の起こるところへ、いってみたいと思いました。けれども、まだ年もゆかないのに、そんな遠いところまで、しかも晩方から出かけていくのが恐ろしくて、ついにゆく気になれなかったのでありますが、ある日のこと、あまり遅くならないう・・・ 小川未明 「青い時計台」
・・・したけれど、どうしても、このことばかりはできなかったというのは、ある人がたくさん金がもうかったときには、一方ではまたたいへんに損をするというようなぐあいで、みんなの気持ちがいつも一つではなかったから、怒るものもあれば、また喜ぶものがあり、中・・・ 小川未明 「明るき世界へ」
・・・しかし、私たちがあれをとって食べたら、人間が怒るでありましょう。」「だれが、それを見ているものですか。かってに降りて、食べるがいい。」と、くまはいいました。鶏は、震えながら、「あぶなくはないでしょうか。こんなに汽車は疾く走っています。」・・・ 小川未明 「汽車の中のくまと鶏」
・・・ 詩はついに、社会革命の興る以前に先駆となって、民衆の霊魂を表白している。例えばこれが労働者の唄う歌にしろ、或は革命の歌にしろ、文字となってまず先きに現われるということは事実である。そして、芸術の形をつくるのである。それは最も感激的に、・・・ 小川未明 「詩の精神は移動す」
・・・よしんば実存主義運動が既成の日本文学の伝統へのアンチテエゼとして起るとしても、しかし、伝統へのアンチテエゼが直ちに「水いらず」や「壁」や「反吐」になり得ないところが、いわば日本文学の伝統の弱さではなかろうか。フランスのようにオルソドックス自・・・ 織田作之助 「可能性の文学」
・・・随分迷惑な話だったから、「――まあ、そう怒りなさんな。怒る方が損だよ。あんたも川那子がどんな男か知ってる筈だ。これが、普通の男なら、おれもあの女だけはよせと忠告するところだが、相手が川那子だから、言っても無駄だと思って黙っていたんだよ」・・・ 織田作之助 「勧善懲悪」
出典:青空文庫