・・・ 私のえがいているもの――そうですね、私は慾張りの方ですから、随分いろいろな慾望がありますけれど、日常の生活でいえば、さしあたり静かなところへ旅行したいと思っています。同じ旅行でも関西方面より北の方がいいと思います。大阪、京都などのよう・・・ 宮本百合子 「愛と平和を理想とする人間生活」
・・・本当に親父のいる頃不自由なくしてやってた癖が抜けないでね。本当に困っちゃいますよ」 一太は、楊枝の先に一粒ずつ黒豆を突さし、沁み沁み美味さ嬉しさを味いつつ食べ始める。傍で、じろじろ息子を見守りながら、ツメオも茶をよばれた。 これは雨・・・ 宮本百合子 「一太と母」
・・・ 今や諧謔の徒は周囲の人を喜ばすためにかれをして『糸くず』の物語をやってもらうようになった、ちょうど戦場に出た兵士に戦争談を所望すると同じ格で。あわれかれの心は根底より壊れ、次第に弱くなって来た。 十二月の末、かれはついに床についた・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・文芸欄に、縦令個人の署名はしてあっても、何のことわりがきもなしに載せてある説は、政治上の社説と同じようなもので、社の芸術観が出ているものと見て好かろう。そこで木村の書くものにも情調がない、木村の選択に与っている雑誌の作品にも情調がないと云う・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・僕は画かきになる時、親爺が見限ってしまって、現に高等遊民として取扱っているのだ。君は歴史家になると云うのをお父うさんが喜んで承知した。そこで大学も卒業した。洋行も僕のように無理をしないで、気楽にした。君は今まで葛藤の繰延をしていたのだ。僕の・・・ 森鴎外 「かのように」
・・・ちょうどこれと同じように墓地へも毎晩緑色に塗った車が来て、自殺したやくざものどもを載せて行く。すぐに地獄へ連れ込むのではない。それはまず浄火と云うもので浄めなくてはならないからである。浄めると云うのは悉しく調べるのである。この取調べの末に、・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・と腰に弓を張る親父が水鼻を垂らして軍略を皆伝すれば、「あぶなかッたら人の後に隠れてなるたけ早く逃げるがいいよ」と兜の緒を緊めてくれる母親が涙を噛み交ぜて忠告する。ても耳の底に残るように懐かしい声、目の奥に止まるほどに眤しい顔をば「さようなら・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ しかし、何といっても、作家も人間である以上は、一人で一切の生活を通過するということは不可能なことであるから、何事をも正確に生き生きと書き得られるということは所詮それは夢想に同じであるが、私たちにしても作者の顔や過去を知っているときは、・・・ 横光利一 「作家の生活」
・・・ 俺とこが恩受けてるのは、手前とこの親父にじゃ。」「わしがいなんだら、誰がお前らに恩を施すぞ!」「恩恩って、大っきな声でぬかすな! 手前とこが有るばっかしで、俺とこまで穢しやがって、そんな恩施しなら、いつなと持っていけ!」 勘次・・・ 横光利一 「南北」
・・・丁度親友の内情を人に打ち明けたくないのと、同じような関係らしく見えた。 そこで己は外の方角から、エルリングの事を探知しようとした。 己はその後中庭や畠で、エルリングが色々の為事をするのを見た。薪を割っている事もある。花壇を掘り返して・・・ 著:ランドハンス 訳:森鴎外 「冬の王」
出典:青空文庫