一 私は死刑に処せらるべく、今東京監獄の一室に拘禁せられて居る。 嗚呼死刑! 世に在る人々に取っては、是れ程忌わしく恐ろしい言葉はあるまい、いくら新聞では見、物の本では読んで居ても、まさかに自分が此忌わ・・・ 幸徳秋水 「死生」
・・・ N町から中野へ出ると、あののろい西武電車が何時のまにか複線になって、一旦雨が降ると、こねくり返える道がすっかりアスファルトに変っていた。随分長い間あそこに坐っていたのだという事が、こと新しい感じになって帰ってきた。 新宿は特に帰え・・・ 小林多喜二 「独房」
・・・そしてそこにあった座布団を二つに折ると×××× 龍介はきゅうに心臓がドキンドキンと打つのを感じた。「ばか、俺は何もするつもりじゃないんだ」彼は少しどもった。女は初め本当にせず、×××××。龍介はだまって立っていた。「本当?」「本・・・ 小林多喜二 「雪の夜」
・・・となく叛旗を翻えしみかえる限りあれも小春これも小春兄さまと呼ぶ妹の声までがあなたやとすこし甘たれたる小春の声と疑われ今は同伴の男をこちらからおいでおいでと新田足利勧請文を向けるほどに二ツ切りの紙三つに折ることもよく合点しやがて本文通りなまじ・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・もそもの端緒一向だね一ツ献じようとさされたる猪口をイエどうも私はと一言を三言に分けて迷惑ゆえの辞退を、酒席の憲法恥をかかすべからずと強いられてやっと受ける手頭のわけもなく顫え半ば吸物椀の上へ篠を束ねて降る驟雨酌する女がオヤ失礼と軽く出るに俊・・・ 斎藤緑雨 「かくれんぼ」
・・・殿「何をぐず/″\いって居る、別に欲しくはないか、一枚やろうかな」七「へゝゝゝ嘘ばっかり」殿「なに嘘をいうものか、一枚やろう」 と御酒機嫌とは云いながら余程御贔屓と見えまして、黄金を一枚出された時に、七兵衞は正直な人ゆえ、こ・・・ 著:三遊亭円朝 校訂:鈴木行三 「梅若七兵衞」
・・・時には、大森の方から魚を売りに来る男が狭い露地に荷をおろし、蕾を見せた草の根を踏み折ることなぞもあった。そよとの風も部屋にない暑い日ざかりにも、その垣の前ばかりは坂に続く石段の方から通って来るかすかな風を感ずる。わたしはその前を往ったり来た・・・ 島崎藤村 「秋草」
五月が来た。測候所の技手なぞをして居るものは誰しも同じ思であろうが、殊に自分はこの五月を堪えがたく思う。其日々々の勤務――気圧を調べるとか、風力を計るとか、雲形を観察するとか、または東京の気象台へ宛てて報告を作るとか、そんな仕事に追わ・・・ 島崎藤村 「朝飯」
・・・剣のように北側の軒から垂下る長い光った氷柱を眺めて、漸の思で夫婦は復た年を越した。 更に寒い日が来た。北側の屋根や庭に降った雪は凍って、連日溶くべき気色もない。氷柱は二尺、三尺に及ぶ。お島が炉辺へ行って子供に牛乳をくれようとすると、時に・・・ 島崎藤村 「岩石の間」
・・・藁でたばねた髪の解れは、かき上げてもすぐまた顔に垂れ下る。 座敷へ上っても、誰も出てくるものがないから勢がない。廊下へ出て、のこのこ離れの方へ行ってみる。麓の家で方々に白木綿を織るのが轡虫が鳴くように聞える。廊下には草花の床が女帯ほどの・・・ 鈴木三重吉 「千鳥」
出典:青空文庫