・・・けれどもそれは盲目の道徳、醒めない道徳たるに過ぎぬ。開眼して見れば、顔を出して来るものは神でも仏でもなくして自己である。だから自己がすなわち神である仏である。 しかしこんなことは畢竟ずるに私の知識の届く限りで造り上げた仮の人生観たるに過・・・ 島村抱月 「序に代えて人生観上の自然主義を論ず」
・・・ 三日には東京府、神奈川、静岡、千葉、埼玉県に戒厳令が布かれ、福田大将が司令官に任命されて、以上の地方を軍隊で警備しはじめました。そのため、東京市中や市外の要所々々にも歩哨が立ち、暴徒しゅう来等の流言にびくびくしていた人たちもすっかり安・・・ 鈴木三重吉 「大震火災記」
・・・しかし概して西洋種の草花の一般によろこび植えられるようになったのは、大正改元前後のころからではなかろうか。 わたくしが小学生のころには草花といえばまず桜草くらいに止って、殆どその他のものを知らなかった。荒川堤の南岸浮間ヶ原には野生の桜草・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ 昭和改元の年もわずか二三日を余すばかりの時、偶然の機会はまたもやわたくしをして同臭の二三子と共に、同じこの縁先から同じく花のない庭に対せしめた。嘗て初夏の夕に来り見た時、まだ苗であった秋花は霜枯れた其茎さえ悉く刈去られて切株を残すばか・・・ 永井荷風 「百花園」
・・・ わたくしの頽廃した健康と、日々の雑務とは、その後十余年、重ねてこの水郷に遊ぶことを妨げていたが、昭和改元の後、五年の冬さえまた早く尽きようとするころであった。或日、深川の町はずれを処定めず、やがて扇橋のあたりから釜屋堀の岸づたいに歩み・・・ 永井荷風 「放水路」
・・・ 大正改元の翌年市中に暴動が起った頃から世間では仏蘭西の文物に親しむものを忌む傾きが著しくなった。たしか『国民新聞』の論説記者が僕を指して非国民となしたのもその時分であった。これは帰朝の途上わたくしが土耳古の国旗に敬礼をしたり、西郷隆盛・・・ 永井荷風 「正宗谷崎両氏の批評に答う」
・・・ 静軒の文は天保に成ったもの、宕陰の記は慶応改元の春に作られたものである。宕陰が記の一節に曰く、「凡ソ墨堤十里、両畔皆桜ナリ。淡紅濃白、歩ムニ随テ人ニ媚ブ。遠キハ招クガ如ク近キハ語ラントス。間少シク曲折アリ。第一曲ヨリ東北ニ行クコト三、・・・ 永井荷風 「向嶋」
・・・ 一八四八年二月、フランスで二月革命が起りイギリス、ドイツに波及しベルギーでは戒厳令が布かれた。三月三日、ベルギー官憲はマルクスを捕え、マルクス夫人も捕縛して一晩留置場へ入れた。この無法なやりかたは、当時のブルッセル市民を怒らせた。しか・・・ 宮本百合子 「カール・マルクスとその夫人」
・・・すると、直ちにそれを共産党の蜂起とデマり、鎮圧の名目で軍隊を繰り出し、市街戦で革命的労働者、前衛を虐殺し、それをきっかけに戒厳令をも布く。そのような計画が予定のうちにあるキッカケの為に、赤松は総同盟の労働者を最も値よく売ろうとしている、と云・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・保釈の際、判事は二・二六による戒厳令下の事情によって百合子の公判が終了するまで顕治への面会通信は控えるようにといった。 六月二十六日 〔市ヶ谷刑務所の顕治宛 駒込林町より〕 二十六日の夜。九時 第一信[自注2] 今・・・ 宮本百合子 「獄中への手紙」
出典:青空文庫