・・・先生が海苔巻にはしをつけると自分も海苔巻を食う。先生が卵を食うと自分も卵を取り上げる。先生が海老を残したら、自分も海老を残したのだそうである。先生の死後に出て来たノートの中に「Tのすしの食い方」と覚え書きのしてあったのは、この時のことらしい・・・ 寺田寅彦 「夏目漱石先生の追憶」
・・・朝夕の秋風身にしみわたりて、上清が店の蚊遣香懐炉灰に座をゆづり、石橋の田村やが粉挽く臼の音さびしく、角海老が時計の響きもそぞろ哀れの音を伝へるやうになれば、四季絶間なき日暮里の火の光りもあれが人を焼く烟かとうら悲しく、茶屋が裏ゆく土手下の細・・・ 永井荷風 「里の今昔」
・・・また、古びた徐園の廻廊に懸けられた聯句の書体。薄暗いその中庭に咲いている秋花のさびしさ。また劇場や茶館の連った四馬路の賑い。それらを見るに及んで、異国の色彩に対する感激はますます烈しくなった。 大正二年革命の起ってより、支那人は清朝二百・・・ 永井荷風 「十九の秋」
・・・先生はもう一ツ、胸にあまる日頃の思いをおなじ置炬燵にことよせて、春水が手錠はめられ海老蔵は、お江戸かまひの「むかし」なら、わしも定めし島流し、硯の海の波風に、命の筆の水馴竿、折れてたよりも荒磯の、道理引つ込む無理の世は、今もむかしの夢の・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・ 人家の屋根に日を遮られた往来には海老色に塗り立てた電車が二、三町も長く続いている。茅場町の通りから斜めにさし込んで来る日光で、向角に高く低く不揃に立っている幾棟の西洋造りが、屋根と窓ばかりで何一ツ彫刻の装飾をも施さぬ結果であろう。如何・・・ 永井荷風 「深川の唄」
・・・此処にはそれを廻る玉垣の内側が他のものとは違って、悉く廻廊の体をなし、霊廟の方から見下すとその間に釣燈籠を下げた漆塗の柱の数がいかにも粛々として整列している。霊廟そのものもまた平地と等しくその床に二段の高低がつけてあるので、もしこれを第三の・・・ 永井荷風 「霊廟」
・・・「百二十間の廻廊があって、百二十個の灯籠をつける。百二十間の廻廊に春の潮が寄せて、百二十個の灯籠が春風にまたたく、朧の中、海の中には大きな華表が浮かばれぬ巨人の化物のごとくに立つ。……」 折から烈しき戸鈴の響がして何者か門口をあける・・・ 夏目漱石 「一夜」
・・・左右に開く廻廊には円柱の影の重なりて落ちかかれども、影なれば音もせず。生きたるは室の中なる二人のみと思わる。「北の方なる試合にも参り合せず。乱れたるは額にかかる髪のみならじ」と女は心ありげに問う。晴れかかりたる眉に晴れがたき雲の蟠まりて・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・今日会社の帰りに池の端の西洋料理屋で海老のフライを食ったが、ことによるとあれが祟っているかもしれん。詰らん物を食って、銭をとられて馬鹿馬鹿しい廃せばよかった。何しろこんな時は気を落ちつけて寝るのが肝心だと堅く眼を閉じて見る。すると虹霓を粉に・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・ただ竹藪のなかで敲く鉦の音だけを聞いては、夜具の裏で海老のようになるのさ」「海老のようになるって?」「うん。海老のようになって、口のうちで、かんかん、かんかんと云うのさ」「妙だね」「すると、門前の豆腐屋がきっと起きて、雨戸を・・・ 夏目漱石 「二百十日」
出典:青空文庫