・・・ と云いながら、真ッ赤になるほど、身体中を掻いてる男もある。「アラ、まあ大変な虱よ」 赤い襷をかけた女工たちは、甲斐甲斐しく脱ぎ棄てられた労働服を、ポカポカ湯気の立ち罩めている桶の中へ突っ込んでいる。「おい止せよ、女の眼前で・・・ 徳永直 「眼」
・・・また野菜を買いに八幡から鬼越中山の辺まで出かけてゆく。それはいずこも松の並木の聳えている砂道で、下肥を運ぶ農家の車に行き逢う外、殆ど人に出会うことはない。洋服をきたインテリ然たる人物に行逢うことなどは決してない。しかし人家はつづいている。人・・・ 永井荷風 「葛飾土産」
・・・ わたくしは遂に海を見ず、その日は腑甲斐なく踵をかえした。昭和廿二年十二月 永井荷風 「葛飾土産」
・・・から犬を貰って飼い、猶時々は油揚をば、崖の熊笹の中へ捨てて置いた。 父親は例の如くに毎朝早く、日に増す寒さをも厭わず、裏庭の古井戸に出て、大弓を引いて居られたが、もう二度と狐を見る機会がなかった。何処から迷込んだとも知れぬ痩せた野良犬の・・・ 永井荷風 「狐」
・・・寝ねたるあとにエレーンは、合わぬ瞼の間より男の姿の無理に瞳の奥に押し入らんとするを、幾たびか払い落さんと力めたれど詮なし。強いて合わぬ目を合せて、この影を追わんとすれば、いつの間にかその人の姿は既に瞼の裏に潜む。苦しき夢に襲われて、世を恐ろ・・・ 夏目漱石 「薤露行」
・・・髪の毛の間へ五本の指を差し込んでむちゃくちゃに掻いて見る。一週間ほど湯に入って頭を洗わんので指の股が油でニチャニチャする。この静かな世界が変化したら――どうも変化しそうだ。今夜のうち、夜の明けぬうち何かあるに相違ない。この一秒を待って過ごす・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
・・・今日は御味噌を三銭、大根を二本、鶉豆を一銭五厘買いましたと精密なる報告をするんだね。厄介きわまるのさ」「厄介きわまるなら廃せばいいじゃないか」と津田君は下宿人だけあって無雑作な事を言う。「僕は廃してもいいが婆さんが承知しないから困る・・・ 夏目漱石 「琴のそら音」
十月早稲田に移る。伽藍のような書斎にただ一人、片づけた顔を頬杖で支えていると、三重吉が来て、鳥を御飼いなさいと云う。飼ってもいいと答えた。しかし念のためだから、何を飼うのかねと聞いたら、文鳥ですと云う返事であった。 文鳥は三重吉の・・・ 夏目漱石 「文鳥」
・・・とシワルドは渋色の髭を無雑作に掻いて、若き人を慰める為か話頭を転ずる。「海一つ向へ渡ると日の目が多い、暖かじゃ。それに酒が甘くて金が落ちている。土一升に金一升……うそじゃ無い、本間の話じゃ。手を振るのは聞きとも無いと云うのか。もう落付い・・・ 夏目漱石 「幻影の盾」
・・・ 私は、同じ乗組の、同じ水夫としての、友達甲斐から、彼に、いや彼等に今、そのどこだったかを知らせなければならない。 それは、……………… だが、それがどこだったかは、もっと先になれば分るこった。 彼は、間もなく、床格・・・ 葉山嘉樹 「労働者の居ない船」
出典:青空文庫