・・・ 自分は全力を尽して、踏み誤った一歩を還すでしょう。然し、永劫に、誤った一歩は誤った一歩なのです。 かような、重大な、而して余りに人間的な行違いは何によって起り得るかといえば、自分は、一言「未全なる愛」といわずにはいられません。・・・ 宮本百合子 「偶感一語」
・・・お前が出したものは出したと云って、あやまりさえすればすぐ帰すって、警視庁の人が云っているんじゃないか!」 顔は熱いまんま、腹の底から顫えが起って来た。「そんなことを云いに来たの?」「そんな恐ろしい顔をして……マァ考えて御覧……」・・・ 宮本百合子 「刻々」
・・・というお座なりで帰す訳には行かない気がするのであった。 夜は段々と更けて来た。どこかで十時を打った。あたりは静かなので雨戸の外から聞えるその時計の音が、明るい室内のゆとりない空気を一層強く意識させた。その時まで暫く黙ってぼんやり考え・・・ 宮本百合子 「沈丁花」
・・・「帰す帰すって云ってとめておこうかしらん。」 こんな事さえ思った。 それでもまさかそんな事も出来ないから遠縁の親類へいつもの注文通り、 二十二三の少しは教育のあるみっともなくないのをたのんでやった。 も一方先に頼んだ・・・ 宮本百合子 「蛋白石」
・・・拾いし者は速やかに返すべし――町役場に持参するとも、直ちにイモーヴィルのフォルチュネ、ウールフレークに渡すとも勝手なり。ご褒美として二十フランの事。』 人々は卓にかえった。太鼓の鈍い響きと令丁のかすかな声とが遠くでするのを人々は今一度聞・・・ 著:モーパッサン ギ・ド 訳:国木田独歩 「糸くず」
・・・ 酒を飲んでは肉を反す。肉を反しては酒を飲む。 酒を注いで遣る女がある。 男と同年位であろう。黒繻子の半衿の掛かった、縞の綿入に、余所行の前掛をしている。 女の目は断えず男の顔に注がれている。永遠に渇しているような目である。・・・ 森鴎外 「牛鍋」
・・・とうとう宇平と文吉とで勧めて、九郎右衛門を一旦姫路へ帰すことにした。九郎右衛門は渋りながら下関から舟に乗って、十二月十二日の朝播磨国室津に着いた。そしてその日のうちに姫路の城下平の町の稲田屋に這入った。本意を遂げるまでは、飽くまでも旅中の心・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・母がいつ来ても、同じような繰り言を聞かせて帰すのである。 厄難に会った初めには、女房はただ茫然と目をみはっていて、食事も子供のために、器械的に世話をするだけで、自分はほとんど何も食わずに、しきりに咽がかわくと言っては、湯を少しずつ飲んで・・・ 森鴎外 「最後の一句」
・・・このため、彼は彼女の肉体からの圧迫を押しつけ返すためにさえも、なお自身の版図をますますヨーロッパに拡げねばならなかった。何ぜなら、コルシカの平民ナポレオンが、オーストリアの皇女ハプスブルグのかくも若く美しき娘を持ち得たことは、彼がヨーロッパ・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・何だろうとその音のする方をうかがって見たりなどしながら、また目前の蕾に目を返すと、驚いたことには、もう二ひら三ひら花弁が開いている。やがてはらはらと、解けるように花が開いてしまう。この時には何の音もしない。最初二ひら三ひら開いたときには、つ・・・ 和辻哲郎 「巨椋池の蓮」
出典:青空文庫