・・・ 静かに過ぎてきたことを考えると、君もいうようにもとの農業に返りたい気がしてならぬ。君が朝鮮へ行って農業をやりたいというのは、どういう意味かよくわからないが、僕はただしばらくでも精神の安静が得たく、帰農の念がときどき起こるのである。しか・・・ 伊藤左千夫 「去年」
・・・幾百回考えても、つながれてる犬がその棒をめぐるように、めぐっては元へ返り、返っては元へ戻り、愚にもつかぬ事をぐるぐる考えめぐっていたのだ。泳ぎを知らない人が水の深みへはいったように、省作は今はどうにもこうにも動きがとれない。つまりおとよさん・・・ 伊藤左千夫 「隣の嫁」
・・・もう一遍君等と一緒に寄宿舎の飯を喰た時代に返りたい」と、友人は寝巻に着かえながらしみじみ語った。下の座敷から年上の子の泣き声が聞えた。つづいて年下の子が泣き出した。細君は急いで下りて行った。「あれやさかい厭になってしまう。親子四人の為め・・・ 岩野泡鳴 「戦話」
・・・「東京へ帰りたいの」「帰りたきゃア早く帰ったらいいじゃアないか?」「おッ母さんにそう言ってやった、わ、迎えに来なきゃア死んじまうッて」「おそろしいこッた。しかしそんなことで、びくつくおッ母さんじゃアあるまい」「おッ母さん・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・ そこへ何物か表から飛んで来て、裏窓の壁に当ってはね返り、ごろごろとはしご段を転げ落ちた。迷い鳥にしてはあまりに無謀過ぎ、あまりに重みがあり過ぎたようだ。 ぎょッとしたが、僕はすぐおもて窓をあけ、「………」誰れだ? と、いつもの・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・すると生憎運動に出られたというので、仕方がなしに門を出ようとすると、入れ違いに門を入ろうとして帰り掛ける私を見て、垣に寄添って躊躇している着流しの二人連れがあった。一人はデップリした下脹れの紳士で、一人はゲッソリ頬のこけた学生風であった。容・・・ 内田魯庵 「鴎外博士の追憶」
・・・ 越王勾践呉を破りて帰るではありません、デンマーク人は戦いに敗れて家に還ってきました。還りきたれば国は荒れ、財は尽き、見るものとして悲憤失望の種ならざるはなしでありました。「今やデンマークにとり悪しき日なり」と彼らは相互に対していいまし・・・ 内村鑑三 「デンマルク国の話」
・・・ 二人の百姓は、町へ出て物を売った帰りと見えて、停車場に附属している料理店に坐り込んで祝盃を挙げている。 そこで女二人だけ黙って並んで歩き出した。女房の方が道案内をする。その道筋は軌道を越して野原の方へ這入り込む。この道は暗緑色の草・・・ 著:オイレンベルクヘルベルト 訳:森鴎外 「女の決闘」
・・・「私は、からだが、そう強いほうではないし、それに故郷は寒いんですから、帰りたくはないけれど、どうしても帰るようになるかもしれないのよ。」 ある日、先生は、こんなことをおっしゃいました。そのとき、年子は、どんなに驚いたでしょう。それよ・・・ 小川未明 「青い星の国へ」
・・・「え、それは霊岸島の宿屋ですが……こうと、明日は午前何だから……阿母さん、明日夕方か、それとも明後日のお午過ぎには私が向うへ行きますからね、何とか返事を聞いて、帰りにお宅へ廻りましょう」 四 金之助の泊っているの・・・ 小栗風葉 「深川女房」
出典:青空文庫