・・・今のように特別に暑くなった時でなくても、執務時間がやや進んでから、便所に行った帰りに、廊下から這入ると、悪い烟草の匂と汗の香とで噎せるような心持がする。それでも冬になって、煖炉を焚いて、戸を締め切っている時よりは、夏のこの頃が迥かにましであ・・・ 森鴎外 「あそび」
・・・これは友達をこわがらせる為めに、造り事を言ったのであるが、その話を聞いてからは、便所の往き返りに、とかく四畳半が気になってならないのである。殊に可笑しいのは、その造り事を言った当人が、それを言ってからは四畳半がこわくなって、とうとう一度は四・・・ 森鴎外 「心中」
・・・さっさとお帰りなさい。」こう云って娘は戸を締めようとして、戸の握りを握った。娘の手は白くて、それにしなやかな指が附いている。 この時ツァウォツキイが昔持っていて、浄火の中に十六年いたうちに、ほとんど消滅した、あらゆる悪い性質が忽然今一度・・・ 著:モルナールフェレンツ 訳:森鴎外 「破落戸の昇天」
・・・そこここわがままに生えていた木もすでに緑の上衣を剥がれて、寒いか、風に慄えていると、旅帰りの椋鳥は慰め顔にも澄ましきッて囀ッている。ところへ大層急ぎ足で西の方から歩行て来るのはわずか二人の武者で、いずれも旅行の体だ。 一人は五十前後だろ・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・御無理をなされますと、私はウィーンへ帰ります」 磨かれた大理石の三面鏡に包まれた光の中で、ナポレオンとルイザとは明暗を閃めかせつつ、分裂し粘着した。争う色彩の尖影が、屈折しながら鏡面で衝撃した。「陛下、お気が狂わせられたのでございま・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・くれんといっぺんに起き返りよるな。ありゃ! 何んじゃ、お前安次やして!」「さっき来たんやが、お前いやせんだ。」 安次は怒った肩を撫でながら縁に腰を下ろした。「どうしてるのや?」「どうって見た通りのざまや。」「そうか。安次・・・ 横光利一 「南北」
・・・わたくしは国へ帰りますの。」「まだ三月ではありませんか。独逸はまだひどく寒いのです。今時分お帰りなさるようでは、あなたは御保養にいらっしゃったのではございませんね。」「いいえ。わたくしも病気なのでございます。」 この詞を、女は悲・・・ 著:リルケライネル・マリア 訳:森鴎外 「白」
・・・お供揃で猟犬や馬を率せてお下りになったんです。いらっしゃれば大概二週間位は遊興をお尽しなさって、その間は、常に寂そりしてる市中が大そう賑になるんです。お帰りのあとはいつも火の消たようですが、この時の事は、村のものの一年中の話の種になって、あ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・ いつかはまた、ちょっとした子供によくある熱に浮されて苦しみながら、ひるの中は頻りに寐反りを打って、シクシク泣ていたのが、夜に入ってから少しウツウツしたと思って、フト眼を覚すと、僕の枕元近く奥さまが来ていらっしゃって、折ふし霜月の雨のビ・・・ 若松賤子 「忘れ形見」
・・・に蛙が鳴き、米倉の屋根に雀が巣くう、というような情景もそうであるが、やがて郭公の来鳴くころに、弟と笹の葉とりに山に行き粽つくりし土産物ばなしここへ来る一里あまりの田のへりを近路といへばまた帰り行くなどと歌われている。農村・・・ 和辻哲郎 「歌集『涌井』を読む」
出典:青空文庫