・・・とうわさをして居たら、半年もたたない中に此の娘は男を嫌い始めて度々里の家にかえるので馴染もうすくなり、そんな風ではととうとう三条半を書いてやる。 まもなく後に菊酒屋と云う有名な酒屋にやった所がここも秋口から物やかましいといやがられたので・・・ 著:井原西鶴 訳:宮本百合子 「元禄時代小説第一巻「本朝二十不孝」ぬきほ(言文一致訳)」
・・・失敗はあらかじめ覚悟の上でつれて帰りたいから、それに必要な百五十円ばかりを一時立て換えてもらいたいと頼んだ。その全体において、さきに劇場にいる友人に紹介した時よりも熱がさめていたので、調子が冷静であった。無論、友人に対する考えと先輩に対する・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・隣りが料理屋で芸者も一人かかえてあるので、時々客などがあがっている時は、随分そうぞうしかった。しかし僕は三味線の浮き浮きした音色を嫌いでないから、かえって面白いところだと気に入った。 僕の占領した室は二階で、二階はこの一室よりほかになか・・・ 岩野泡鳴 「耽溺」
・・・言換えれば椿岳は実にこの不思議な時代を象徴する不思議なハイブリッドの一人であって、その一生はあたかも江戸末李より明治の初めに到る文明急転の絵巻を展開する如き興味に充たされておる。椿岳小伝はまた明治の文化史の最も興味の深い一断片である。・・・ 内田魯庵 「淡島椿岳」
・・・それからその菜種を持っていって、油屋へ行って油と取換えてきまして、それからその油で本を見た。そうしたところがまた叱られた。「油ばかりお前のものであれば本を読んでもよいと思っては違う、お前の時間も私のものだ。本を読むなどという馬鹿なことをする・・・ 内村鑑三 「後世への最大遺物」
・・・「こんどは、ひとつ姿をかえてやろう。それでないと、ほんとうのことはわからないかもしれぬ。」と思われましたので、お姫さまは、家来を乞食に仕立てて、おつかわしになりました。 いろいろの乞食が、東西、南北、その国の都をいつも往来しています・・・ 小川未明 「赤い姫と黒い皇子」
・・・そして、餌をやり、水を換えてやってから、鳥かごを、戸口の柱にかけてやりました。 太陽が、いちばん早く、ここにかけてある鳥かごにさしたからであります。けれども、あまり寒いので、鳥は、すくんで、体をふくらましていました。やがて、太陽が、かご・・・ 小川未明 「ある日の先生と子供」
・・・私はしばらく躊躇ったが、背に腹は代えられぬと、大股で廊下を伝った。そして、がたがたやっていると、腕を使いすぎたので、はげしく咳ばらいが出た。その音のしずまって行くのを情けなくきいていると、部屋のなかから咳ばらいの音がきこえた。私はあわてて自・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・女の方が年上だなと思いながら、宿帳を番頭にかえした。「蜘蛛がいるね」「へえ?」 番頭は見上げて、いますねと気のない声で言った。そしてべつだん捕えようとも、追おうともせず、お休みと出て行った。 私はぽつねんと坐って、蜘蛛の跫音・・・ 織田作之助 「秋深き」
・・・彼はこの種を蒔いたり植え替えたり縄を張ったり油粕までやって世話した甲斐もなく、一向に時が来ても葉や蔓ばかし馬鹿延びに延びて花の咲かない朝顔を余程皮肉な馬鹿者のようにも、またこれほど手入れしたその花の一つも見れずに追い立てられて行く自分の方が・・・ 葛西善蔵 「子をつれて」
出典:青空文庫