・・・ウィーゼ氏の話によると数年来かの国の気象学者たちは、気圧その他の気象学的要素の配置から夏期における北氷洋上の氷の分布状況を予報することを研究し、それがだいぶうまく的中するようになった。そのおかげで今度の航海がたいへんに楽であったというのであ・・・ 寺田寅彦 「北氷洋の氷の割れる音」
・・・ 六階で以前のままなものは花卉盆栽を並べた温室である。自分は三越へ来てこの室を見舞わぬ事はめったにない。いつでも何かしら美しい花が見られる。宅の庭には何もなくなった霜枯れ時分にここへ来ると生まれかわったようにいい心持ちがする。一階から五・・・ 寺田寅彦 「丸善と三越」
・・・と呼び歩いた。牡蠣売りは昔は「カキャゴー」と言ったものらしい、というのは自分らの子供時代におとなからしばしば聞かされたたぬきの怪談のさまざまの中に、この動物が夜中に牡蠣売りに化けて「カキャゴーカキャゴー」と呼び歩くというのがあって、われわれ・・・ 寺田寅彦 「物売りの声」
・・・ 善ニョムさんは、片手を伸すと、一握りの肥料を掴みあげて片ッ方の団扇のような掌へ乗せて、指先で掻き廻しながら、鼻のところへ持っていってから、ポンともとのところへ投げた。「いい出来だ、これでお天気さえよきゃあ豊年だぞい」 善ニョム・・・ 徳永直 「麦の芽」
・・・座敷には、刎返した重い夜具へ背をよせかけるように、そして立膝した長襦袢の膝の上か、あるいはまた船底枕の横腹に懐中鏡を立掛けて、かかる場合に用意する黄楊の小櫛を取って先ず二、三度、枕のとがなる鬢の後毛を掻き上げた後は、捻るように前身をそらして・・・ 永井荷風 「妾宅」
・・・西瓜の粒が大きく成るというので彼は秋のうちに溝の底に靡いて居る石菖蒲を泥と一つに掻きあげて乾燥して置く。麦の間を一畝ずつあけておいてそこへ西瓜の種を下ろす。畑のめぐりには蜀黍をぎっしり蒔いた。麦が刈られてからは日は暑くなる。西瓜の嫩葉は赤蠅・・・ 長塚節 「太十と其犬」
・・・この手、この足、痒いときには掻き、痛いときには撫でるこの身体が私かと云うと、そうも行かない。痒い痛いと申す感じはある。撫でる掻くと云う心持ちはある。しかしそれより以外に何にもない。あるものは手でもない足でもない。便宜のために手と名づけ足と名・・・ 夏目漱石 「文芸の哲学的基礎」
・・・ 私は頭を抱えながら、滅茶苦茶に沢山な考えを、掻き廻していた。そして、私の手か頭かに、セコンドメイトの手の触れるのを待っていた。 私は、おそらく、五分間もそうしていた。だが、手は私に触れなかった。 私は顔を上げた。 私を通り・・・ 葉山嘉樹 「浚渫船」
・・・広し家族多しといえども、一家の夫婦・親子・兄弟姉妹、相互いに親愛恭敬して至情を尽し、陰にも陽にも隠す所なくして互いにその幸福を祈り、無礼の間に敬意を表し、争うが如くにして相譲り、家の貧富に論なく万年の和気悠々として春の如くなるものは、不品行・・・ 福沢諭吉 「日本男子論」
・・・ 四季のうち夏季は最も積極なり。ゆえに夏季の題目には積極的なるもの多し。牡丹は花の最も艶麗なるものなり。芭蕉集中牡丹を詠ずるもの一、二句に過ぎず。その句また 尾張より東武に下る時牡丹蘂深くわけ出る蜂の名残かな 芭蕉 ・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
出典:青空文庫