・・・あのアポルロの石像のある処の腰掛に腰を掛ける奴もあり、井戸の脇の小蔭に蹲む奴もあり、一人はあのスフィンクスの像に腰を掛けました。丁度タクススの樹の蔭になって好くは見えません。主人。皆な男かい。家来。いえ、男もいますし女もいます。乞食・・・ 著:ホーフマンスタールフーゴー・フォン 訳:森鴎外 「痴人と死と」
・・・しかし猫には夕飯まで喰わして出て来たのだからそれを気に掛けるでもないが、何しろ夫婦ぐらしで手の抜けぬ処を、例年の事だから今年もちょっとお参りをするというて出かけたのであるから、早く帰らねば内の商売が案じられるのである。ほんとうに辛抱の強い、・・・ 正岡子規 「熊手と提灯」
・・・されど蕪村の句その影響を受けしとも見えざるは、音調に泥みて清新なる趣味を欠ける和歌の到底俳句を利するに足らざりしや必せり。 当時の和文なるものは多く擬古文の類にして見るべきなかりしも、擬古ということはあるいは蕪村をして古語を用い古代の有・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・羽なくして空に翔るべし、鰭なくして海に潜むべし。音なくして音を聴くべく、色なくして色を観るべし。かくのごとくして得来たるもの、必ず斬新奇警人を驚かすに足るものあり。俳句界においてこの人を求むるに蕪村一人あり。翻って芭蕉はいかんと見ればその俳・・・ 正岡子規 「俳人蕪村」
・・・仕事は九百貫目、九百貫目掛ける十、答九千貫目。「九千貫だよ。おい。みんな。」「団長さん。さあこれから晩までに四千五百貫目、石をひっぱって下さい。」「さあ王様の命令です。引っぱって下さい。」 今度は、とのさまがえるは、だんだん・・・ 宮沢賢治 「カイロ団長」
・・・それより、まあ、駈ける用意をなさい。ここは最大急行で通らないといけません。」 楢夫も仕方なく、駈け足のしたくをしました。「さあ、行きますぞ。一二の三。」小猿はもう駈け出しました。 楢夫も一生けん命、段をかけ上りました。実に小猿は・・・ 宮沢賢治 「さるのこしかけ」
・・・いつか、人間の如何那関係に於ても、欠けると大変なのは、友情だと云うのを読み、深い真のあるを思う。 母上、貴方は、どうしてもう少し私や、Aに、友情を持って下さることは出来ないでしょうか。 A、貴方は、もう少し、一人の友に対して寛大であ・・・ 宮本百合子 「傾く日」
・・・小間の床に青楓の横物をちょっと懸ける、そういう趣味が茶器の好みにも現われているのであった。「――これ美味しいわね、どこの」「河村のんどっせ」 章子と東京の袋物の話など始めた女将の、大柄ななりに干からびたような反歯の顔を見ているう・・・ 宮本百合子 「高台寺」
・・・うちの女中は、本当によく駈ける。北町一丁目の馬と冗談を云う位。それが本性を発揮し私の夢の裡でまで彼那勢いで駈け出したのかと思ったら、ひとりでににやにやした。烏のことは見当がつかない。空気銃を持っている子供を、慶応のグラウンドの横できのう見た・・・ 宮本百合子 「静かな日曜」
・・・かりに男八時間女八時間の社会的な勤労に対して、男と女とが一銭の差のない報酬を獲る社会があったとして、ではそれでそこには欠けることない両性の明るくゆたかな生活が創られているといえるのだろうか。 世界じゅうの婦人がおびただしく社会的な活動に・・・ 宮本百合子 「女性の現実」
出典:青空文庫