・・・伯爵某々が下賜された土地小住宅とともに十五年年賦で分譲する。希望者は事務所へ照会せよ。 ホワイト・チャペル通の交叉点を過ると、街の相貌がだんだん違って来た。家並が低くなった。木造二階家がよろめきながら立っている。往来はひろがり、タク・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・ 英蘭銀行を中軸とする商業地帯は午後五時以後一時に暗く貧血して夜毎の仮死状態に入る。 が、諸君! ロンドンの勤労者諸君! 諸君はロンドン地下電車に積み込まれて疾走しつつ、頭の上にどんなロンドン市地図が展開しているか果して知っているか・・・ 宮本百合子 「ロンドン一九二九年」
・・・本町を横切って、石町河岸から龍閑橋、鎌倉河岸に掛る。次第に人通が薄らぐので、九郎右衛門は手拭を出して頬被をして、わざとよろめきながら歩く。文吉はそれを扶ける振をして附いて行く。 神田橋外元護寺院二番原に来た時は丁度子の刻頃であった。往来・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・三人に鵜殿家から鮨と生菓子とを贈った。 酉の下刻に西丸目附徒士頭十五番組水野采女の指図で、西丸徒士目附永井亀次郎、久保田英次郎、西丸小人目附平岡唯八郎、井上又八、使之者志母谷金左衛門、伊丹長次郎、黒鍬之者四人が出張した。それに本多家、遠・・・ 森鴎外 「護持院原の敵討」
・・・その居る処から山城河岸の檀那と呼ばれ、また単に河岸の檀那とも呼ばれた。姓は源、氏は細木、定紋は柊であるが、店の暖簾には一文字の下に三角の鱗形を染めさせるので、一鱗堂と号し、書を作るときは竜池と署し、俳句を吟じては仙塢と云い、狂歌を詠じては桃・・・ 森鴎外 「細木香以」
・・・それを読んでいた時字書を貸して貰った。蘭和対訳の二冊物で、大きい厚い和本である。それを引っ繰り返して見ているうちに、サフランと云う語に撞着した。まだ植字啓源などと云う本の行われた時代の字書だから、音訳に漢字が当て嵌めてある。今でもその字を記・・・ 森鴎外 「サフラン」
・・・というものありて、華氏百度の熱にて死す云々。これはペツテンコオフエルが疫癘学、コツホが細菌学を倒すに足りぬべし。また恙の虫の事語りていわく、博士なにがしは或るとき見に来しが何のしいだしたることもなかりき、かかることは処の医こそ熟く知りたれ。・・・ 森鴎外 「みちの記」
・・・の一言で聞き捨て、見捨て、さて陣鉦や太鼓に急き立てられて修羅の街へ出かければ、山奥の青苔が褥となッたり、河岸の小砂利が襖となッたり、その内に……敵が……そら、太鼓が……右左に大将の下知が……そこで命がなくなッて、跡は野原でこのありさまだ。死・・・ 山田美妙 「武蔵野」
・・・ ナポレオンは河岸の丘の上からそれらの軍兵を眺めていた。騎兵と歩兵と砲兵と、服色燦爛たる数十万の狂人の大軍が林の中から、三色の雲となって層々と進軍した。砲車の轍の連続は響を立てた河原のようであった。朝日に輝いた剣銃の波頭は空中に虹を撒い・・・ 横光利一 「ナポレオンと田虫」
・・・ 彼女は貸した安次の着ている蒲団を一寸見た。そして彼が死んでからまだ役に立つかどうかと考えたが、彼女の気持が良ければ良いだけ、安次を世話した自分の徳が、死んだ良人の「あの世の苦しさ」まで滅ぼすように思われてありがたくなって来た。彼女は入・・・ 横光利一 「南北」
出典:青空文庫